【日清戦争】

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日清戦争

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日清戦争


戦争:日清戦争
年月日:1894年7月25日から1895年11月30日[1]
場所:主に朝鮮半島満州黄海
結果:日本の勝利
交戦勢力
大日本帝国 清国
指揮官
山縣有朋
伊東祐亨 李鴻章
丁汝昌
戦力
240,616
630,000
損害
戦死 1132
戦傷死 285
病死 11,894
戦傷病 3,758[2] 死傷 35,000

日清戦争
豊島沖 - 成歓 - 平壌 - 黄海 - 鴨緑江 - 旅順口 - 威海衛 - 牛荘 - 澎湖

日清戦争(にっしんせんそう、中国語:甲午戦争、第一次中日戦争、英語:First Sino-Japanese War)は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に朝鮮半島李氏朝鮮)をめぐる大日本帝国と大清国の戦争。日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。

目次 [非表示]
1 概要
2 戦争目的と動機
3 前史
3.1 古代以来
3.2 西力東漸と「日清朝」の外交政策
3.3 「日朝」国交交渉と「日清」修好条規
3.4 日本の征韓論と明治六年政変
3.5 日本の台湾出兵
3.6 江華島事件と「日朝」修好条規
3.7 日本による琉球処分と分島改約提案
4 朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢
4.1 朝鮮の開国と壬午事変・甲申政変
4.2 朝鮮情勢の安定化をめぐる動き
4.3 日本の軍備拡張
5 戦争の経過
5.1 開戦期
5.1.1 朝鮮国内の甲午農民戦争
5.1.2 日清の朝鮮出兵
5.1.3 日本軍の王宮占領・日清開戦
5.1.4 豊島沖海戦・高陞号事件
5.1.5 成歓・牙山の戦い
5.2 両国の戦争指導と軍事戦略
5.2.1 日本
5.2.2 清
5.3 展開期
5.3.1 大日本大朝鮮両国盟約
5.3.2 平壌の戦い
5.3.3 黄海海戦
5.3.4 日本軍の鴨緑江渡河
5.3.5 旅順攻略・旅順虐殺事件
5.3.6 東学農民軍の再蜂起と鎮圧
5.4 講和期
5.4.1 陸海軍共同の山東作戦(北洋艦隊の降伏)
5.4.2 遼河平原の作戦(遼東半島全域の占領)
5.4.3 英米の和平仲介
5.4.4 台湾海峡の要衝、澎湖列島の占領
5.4.5 休戦・講和
5.4.6 三国干渉
5.5 台湾平定(乙未戦争
5.5.1 割譲前の台湾
5.5.2 台湾平定
6 年表
7 戦費と動員
7.1 戦費
7.2 動員(軍夫の大規模雇用)
7.3 軍紀(戦地軍法会議での処罰者数)
8 日本軍の損害
8.1 伝染病の流行
8.2 凍傷
9 民間人の被害
10 影響
10.1 日本の戦中戦後
10.1.1 近代的な国民国家の形成
10.1.2 財政・公共投資の膨張と経済発展
10.1.3 賠償金の使途
10.2 清の戦後
10.3 朝鮮の戦中戦後
11 その他
12 脚注
13 関連項目
14 参考文献(五十音順)
15 外部リンク

概要 [編集]
1894年(明治27年)、朝鮮国内の甲午農民戦争をきっかけに、6月に出兵した日清両国が宣戦布告(8月1日)にいたった。国軍を近代化してきた日本は、「編成・装備・訓練が統一されておらず、動員・兵站・指揮のシステムも近代軍として体をなしていなかった」[3]清に対し、終始優勢に戦局を進め、遼東半島などを占領した(もっとも、元勲の山縣有朋第一軍司令官が「平壌陥落は実に意外の結果……〔黄海〕海戦大捷これまた予想の外」と書き記したように、大国清との開戦は、国内で緊張をもって迎えられていた)。また戦争指導のため、明治天皇大本営が広島に移り、臨時第七議会もそこで招集された。

1895年(明治28年)4月17日、下関で日清講和条約が調印された。しかし、4月23日にロシア・フランス・ドイツが遼東半島の返還を要求し(三国干渉)、日本はその要求を受け入れた。なお、5月末から日本軍が割譲された台湾に上陸し、11月18日、大本営に全島平定が報告された(乙未戦争)。台湾が軍政から再び民政に移行した翌日の1896年(明治29年)4月1日、ようやく大本営が解散された。

帝国主義時代に行われた日清戦争は、両交戦国と戦争を誘発した朝鮮の三国に、大きな影響を与えた。近代日本は、大規模な対外戦争をはじめて経験することで「国民国家」に脱皮し、また戦後経営(財政と公共投資の膨張)が経済発展をうながした。敗戦国の清は、1880年代のアフリカのように列強による勢力分割の対象にされ、複数の要衝を租借地にされて失った。その後、義和団の乱で半植民地化が進み、滅亡(辛亥革命)に向かうこととなる。清の「保護」下から脱した朝鮮では、日本の影響力が強まる中で甲午改革が行われるものの、親露派のクーデター等によって改革が失速した。1897年(明治30年)、朝鮮半島から日本が政治的に後退し、満洲にロシアが軍事的進出をしていない状況の下、大韓帝国が成立することとなる。

戦争目的と動機 [編集]

1891年の極東地図 日本

『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和などが唱われている[4]。一方、それは名目であり[5]、実際は朝鮮を自国の影響下におくことや中国の領土割譲など自国権益の拡大を目的とした戦争とする説もある[6]。また、日清戦争の背景には露朝関係あるいはロシアの南下政策(中国を巡る英露対立[7])が影響しているという説も存在する[8][9][10]

清国

アジア諸国の西欧列強による植民地化と日本による朝鮮王朝の開国と干渉に刺激された結果、清国と朝鮮の関係を伝統的な宗属関係から近代的な宗主国と属国の関係(宗主国と植民地の関係)に改めて朝鮮を自勢力下に留めようとした戦争[11]。其の他、東洋と西洋世界の対立や伝統的な華夷思想の影響など、思想対立的な要素なども強く含まれている[12]。

前史 [編集]
古代以来 [編集]
詳細は「日中関係史」、「日朝関係史」をそれぞれ参照

歴史上、白村江の戦い(663年)、元冦(1274年・1281年)、豊臣秀吉による朝鮮出兵(1592-98年)を除けば、日中朝の三国が関係した戦いは、きわめて少ない。その理由として、三国が漢字や儒教など文化を共有しており、また中国の歴代王朝が自ら構想する世界秩序(中華思想華夷秩序)に基づき、周辺諸国冊封して朝貢関係を築くことにより、東アジアに秩序と経済交流の安定をもたらしていたとする説がある[13]。また西洋の精神と違い、東洋の精神は基本的に「調和」であり[14]、三国内で他国のことにあまり干渉しなかったこと、それに加えて当時は現在と比べ交通や通信などの科学技術の進歩や国際協調などのグローバル化の波はなく、其々の地域で独立性が高く、あまり摩擦が生じなかったことが要因ではないかと考えられている[15]。[要出典]

詳細は「清」、「李氏朝鮮」をそれぞれ参照

日清戦争の交戦国となる清は、1616年女真族が明から独立して建国した後金を前身とし、1636年に国号を清と改めた。1644年、李自成の乱で明が滅びた後、明の遺臣の要請に応じて李自成をやぶり、首都を盛京(後の奉天)から北京に移した。広大な大国で、北部と西部の辺境地域を藩部とし、南のネパールとビルマとシャムと越南、東の朝鮮と琉球冊封した。また北辺は、ロシア帝国との間に条約を締結し、国境を漸次確定した。

日清開戦のきっかけを作る朝鮮王朝(以下「朝鮮」という)は、1392年に建国。明の冊封を受けて国号「朝鮮」を賜り、その周辺で唯一朱子学を国教(正教)とするなど、明の世界観を受け入れて宗主・藩属(宗藩)関係(「宗属関係」「事大関係」ともいわれ、西洋の属国と違って内政外交は朝鮮の自主を認めていた)に甘んじた[16]。明が滅亡する前、清軍が朝鮮に二度侵攻(丁卯胡乱丙子胡乱)し、降伏した朝鮮国王が「三跪九叩頭の礼」を強いられ、清と宗藩関係を結ばされた。

西力東漸と「日清朝」の外交政策等 [編集]
19世紀なかばから東アジア世界は、西洋列強の脅威にさらされた。その脅威は、17世紀の西洋進出と違い、経済的側面だけでなく、政治的勢力としても直接影響を与えた。ただし、列強各国の利害関心、また日清朝の地理と経済条件、政治体制、社会構造などにより、三国への影響が異なった[17]。

詳細は「阿片戦争」、「アロー戦争」をそれぞれ参照

たとえば、大国の清は、広州一港に貿易を限っていた。しかし、阿片戦争(1839-42年)とアロー戦争(1857-60年)の結果、多額の賠償金を支払った上に、領土の割譲、11港の開港などを認め、また不平等条約を締結した。そのため、1860年代から漢人官僚曽国藩、李鴻章等による近代化の試みとして洋務運動が展開され、伝統的な文化と制度を土台にしながら、軍事を中心に西洋技術の導入を進めた。ただし、近代化の動きが日本と大きく異なる。一例として外交は、条約関係が西洋諸国との間に限られ、旧来の宗藩関係がそのままであった[18]。

詳細は「黒船来航」、「明治維新」をそれぞれ参照

日本では、アメリカ艦隊の来航(砲艦外交)を契機に、江戸幕府鎖国から開国に外交政策を転換し、また西洋列強と不平等条約を締結した。その後、新政府が誕生すると、幕藩体制に代わり、西洋式の近代国家が志向された。新政府は、内政で中央集権や文明開化や富国強兵などを推進し、また外交で条約改正、隣国との国境確定、清・朝との関係再構築(国際法に則った近代的外交関係の樹立)など諸課題に取り組んだ。

詳細は「李氏朝鮮#開国圧力と大韓帝国 - 高宗時代前期〜中期」を参照

朝鮮では、摂政の大院君も進めた衛正斥邪運動が高まる中、1866年にフランス人宣教師9名などが処刑された(丙寅教獄)。報復として江華島に侵攻したフランス極東艦隊(軍艦7隻、約1,300人)との交戦に勝利し、撤退させた(丙寅洋擾)。また同年、通商を求めてきたアメリカの武装商船との間で事件が起こった。翌1867年、米国艦隊5隻が朝鮮に向かい、損害賠償と条約締結を要求したものの、朝鮮側の抵抗にあって艦隊は去った(辛未洋擾)。大院君は、仏米の両艦隊を退けたことで自信をふかめ、旧来の外交政策鎖国と攘夷)をつづけた[19]。

「日朝」国交交渉と「日清」修好条規 [編集]
詳細は「日清修好条規」を参照

1868年(明治元年)末、日本の新政府は、朝鮮に王政復古を伝える書契を渡そうとした。しかし朝鮮は、従来の形式と異なり、文中に中国皇帝のみが使う「皇」と「勅」の語があったため、清との宗藩関係にもとづき、受け取りを拒否した。数年間、国交交渉が進展しなかった。そのため、日本は、朝鮮の宗主国清と対等の国交条約を結び、清・朝間の宗藩関係を利用して再び国交交渉にのぞむ方針をたてた。1871年明治4年)9月13日、清と日清修好条規および通商章程を締結した。

もっとも、日清の両国間には、琉球王国琉球国)の帰属という領土問題があった。1871年明治4年)7月、廃藩置県によって琉球は、鹿児島県に一応編入され、翌1872年(明治5年)9月に琉球藩を設置し、国王を他の藩主同様華族に列する詔書が授けられた。しかし、その後も琉球の帰属問題は紛争がつづいた。たとえば、1871年明治4年)、同島民の船が難破して台湾南部に漂着したとき、台湾原住民による宮古島島民遭難事件が発生していたものの、日本は台湾出兵まで同事件を処理できなかった。

日本の征韓論と明治六年政変 [編集]
詳細は「征韓論」、「明治六年政変」をそれぞれ参照

1873年明治6年)6月、日本(いわゆる留守政府)では、参議板垣退助が日朝国交交渉の行きづまりを打開するために歩兵一箇大隊の朝鮮派遣を主張し、西郷隆盛使節派遣と自らその職への任命を主張した。その後、岩倉具視が帰国すると、内治優先の立場から使節派遣に反対の上奏をし、明治天皇の裁可によって派遣が延期され、参議の西郷と板垣らが辞職した。もっとも、政変後に実権をにぎった大久保利通等は、「征韓論」について交渉決裂後の武力行使に反対ではなかった。そうした征韓論の背景に、1871年明治4年)8月29日の廃藩置県等による士族の不満があり、その後、1873年明治6年)の徴兵令公布、1876年(明治9年)の廃刀令秩禄処分と近代化の過程で士族反乱が相次ぐこととなる。

日本の台湾出兵 [編集]
詳細は「台湾出兵」を参照

1874年(明治7年)、日本は、宮古島島民遭難事件(1871年)を処理するため、台湾出兵を準備[20]したものの、英米両国の反対意見と局外中立の表明、さらに征韓論にも反対した参議木戸孝允の反対と辞任により、派遣中止を決めた。しかし5月2日、西郷隆盛が征討軍を長崎から出航させると、大久保利通も追認し、同年7月1日に日本軍が台湾南部の事件発生地域を占領する事態となった(近代日本初の国外出兵)[21]。

清は、直ちに抗議し、撤兵を強く求めた。清から強い抗議を受けた日本は、交戦を覚悟した上、9月「和戦を決する権」を与えられた全権大使の大久保を北京に送った。北京での交渉が難航するものの、イギリスの仲介もあって清は、日本の出兵を「義挙」と認め、50万両(テール)の賠償をすることで決着した。このことは琉球の帰属問題で日本に有利に働いた。翌1875年(明治8年)、日本は琉球に対し、清との冊封朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令した。ただし、琉球客家を主とする人々は、清との関係存続を嘆願し、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着がつかなかった。また以後の清は、日本に警戒感を持ち、北洋艦隊建設の契機ともなった。

江華島事件と「日朝」修好条規 [編集]
詳細は「江華島事件」、「日朝修好条規」をそれぞれ参照

1873年明治6年)11月、朝鮮では、閔妃一派による宮中クーデターが成功し、摂政の大院君(国王高宗の実父)が失脚した(なお両者の政争は、その後もつづき、20年後の日清戦争では大院君の擁立と閔妃一派の追放として現れる)。鎖国攘夷など大院君の復古主義的政策をこころよく思わない開化派官僚をふくむ、反大院君勢力に支えられ、閔氏政権が誕生した[22]。この機に乗じて日本は、1874年(明治7年)6月から国交交渉を再開した。9月、大臣・次官クラスによる書契交換からの交渉開始で合意し、1875年(明治8年)2月、朝鮮に森山茂が派遣された。しかし、礼服(江戸期のものか洋式大礼服か)、宴饗大庁門の通行(旧来、清の使節だけが通行)をめぐって朝鮮と対立し、書契交換の前に交渉が中断した。そのため、朝鮮沿岸に軍艦を派遣し、海路を測量させて示威を行い、交渉を有利に進めることとしし、軍艦「雲揚」と「第二丁卯」を派遣した。同年9月20日、「雲揚」は、首都漢城に近い要塞地帯の江華島に接近し、そのとき発砲されたとの理由で戦闘がはじまった。9月22日、日本側が永宗島の砲台を攻撃し、占領する事態にまで事件が拡大した[23]。

日本は、同年12月に黒田清隆特命全権大使に任命し、軍艦3隻などをともなって朝鮮に派遣した結果(砲艦外交)、翌1876年(明治9年)2月に日朝修好条規が調印された。条約は、第一条で「朝鮮は自主の邦にして、日本国と平等の権利を保有せり」としながら、第十条で片務的領事裁判権を規定する不平等条約であり、さらに第七条では日本が朝鮮沿岸の測量権を得て軍艦の周航など軍事的進出を容易にすることとなった[24]。なお、日朝修好条規で朝鮮が「自主の邦」と規定されたとはいえ、清の宗主権を否定したものではなく、従来の宗藩関係(属国自主)は変わらなかった。ちなみに、1882年(明治15年)の清朝商民水陸貿易章程では、清の宗主権が明文化されることとなる。

日本による琉球処分と分島改約提案 [編集]
詳細は「琉球処分」を参照

1879年(明治12年)、日本は、琉球処分によって琉球藩沖縄県とし、琉球尚泰の東京移住を命じた。しかし、琉球内ではそれを不服として日本に様々な嘆願を行い、また清に救援を求める人々もあった。清が宗藩関係の回復にむけて積極的になったため、日清関係が悪化した。世界巡遊中の前合衆国大統領ユリシーズ・グラント明治天皇との会見で、西欧列強の介入を防ぐために日清両国の譲歩を助言したこともあり、翌1880年明治13年)、北京で日清交渉が行われた。

日本は、沖縄本島を日本領、八重山諸島宮古島を中国領とし、日清修好条規に日本の欧米並みの最恵国待遇を追加する案(分島改約案)を提示し、一旦まとまった。しかし清は、もともと二島の領有を望まず、従来の宗藩関係を維持するため、二島を琉球に返還して琉球王国再興を求めた。分島案に対する琉球人の反対もあり、提案受け入れの態度を変えて調印にいたらなかった[25] 。その後、清では、琉球問題での交渉決裂と日本の台湾進出への警戒感から、対日強硬論が唱えられた[26]。なお、領有権問題の解決は、1894年(明治27年)に勃発する日清戦争終結まで持ち越されることとなった。

朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢 [編集]
朝鮮の開国と壬午事変・甲申政変 [編集]
朝鮮政府内で開国・近代化を推進する「開化派」と、鎖国・攘夷を訴える「斥邪派」との対立がつづく中、日本による琉球処分(清との宗藩関係解消)の余波が朝鮮外交に大きな影響を与えた。日本の朝鮮進出と属国消滅を警戒する清が、朝鮮と西洋諸国との条約締結を促進したのである。その結果、朝鮮は、開国が規定路線となり(清によってもたらされた「開化派」の勝利)、1882年(明治15年)5月22日、米朝修好通商条約調印など米英独と条約を締結した。しかし、政府内で近代化につとめてきた「開化派」は、清に対する態度の違いから分裂してしまう。後記のとおり壬午事変後、清が朝鮮に軍隊を駐留させて干渉するようになると、その清の方針に沿おうとする穏健的開化派(事大党)と、それを不当とする急進的開化派(独立党)との色分けが鮮明になった。党派の観点からは前者が優勢、後者が劣勢であり、また国際社会では清が前者、日本が後者を支援した[27]。

詳細は「壬午事変」を参照

1882年(明治15年)7月、首都漢城で、処遇に不満をいだく軍人たちによる暴動が起こった。民衆の反日感情、開国・近代化に否定的な大院君らの思惑も重なり、日本人の軍事顧問等が殺害され、日本公使館が襲撃される事態となった。事変の発生を受け、日清両国が朝鮮に出兵した。日本は、命からがら帰国した花房義質公使に軍艦4隻と歩兵一箇大隊などをつけて再度、朝鮮赴任を命じた。居留民の保護と暴挙の責任追及、さらに未決だった通商規則の要求を通そうとの姿勢であった[28]。8月30日、日朝間で済物浦条約が締結され、日本公使館警備用に兵員若干の駐留などが決められた(2年後の甲申政変で駐留清軍と武力衝突)。

なお日本は、12月に「軍拡八カ年計画」を決定するなど、壬午事変が軍備拡張の転機となった。清も、旧来と異なり、派兵した3,000人をそのまま駐留させるとともに朝鮮の政治と軍事に干渉する等、同事変が対朝鮮外交の転機となった。

詳細は「甲申政変」を参照

1884年明治17年)、越南(ベトナム)をめぐって清とフランスの間に緊張が高まったため(清仏戦争勃発)、朝鮮から駐留清軍の半数が帰還した。政府内で劣勢に立たされていた独立党は、竹添進一郎公使の支援を利用し、事大党政権を打倒するクーデターを計画した。12月4日にクーデターを決行し、翌5日に新政権を発足させた。その間、4日夜から竹添公使は、日本の警護兵百数十名を連れ、国王保護の名目で王宮に参内していた。しかし6日、駐留清軍の軍事介入により、クーデターが失敗し、王宮と日本公使館などで日清両軍が衝突して双方に死者が出た。

政変後、朝鮮政府内で日本の影響力が大きく低下することとなる。その日本では、天津条約が締結される一ケ月前の1894年(明治27年)3月16日『時事新報』に脱亜論(無署名の社説)が掲載された。

詳細は「天津条約 (1885年4月)」を参照

1885年(明治18年)4月18日、全権大使伊藤博文李鴻章の間で天津条約が調印された。四ヶ月以内の日清両軍の撤退と、以後、朝鮮出兵の事前通告ならびに事態収拾後の即時撤兵が定められた。なお同条約は、自国の出兵が相手国の出兵を誘発するため、出兵の抑止効果があった。実際、1894年(明治27年)6月までの約9年間、日清両国間で朝鮮をめぐる紛争が顕在化していない[29]。たとえば、1893年明治26年)、前年に就任した大石正己公使の強硬な態度により、日朝間で防穀令事件が大きな外交問題になったとき、伊藤首相と李鴻章大臣の連絡・協調により、朝鮮が賠償金を支払うことで決着がついた。もっとも同事件の結果、日朝関係が悪化し(更迭された大石に代わり、大鳥圭介が公使に就任)、逆に総理朝鮮交渉通商事宜(宗主国、清の公使級外交官)に就任してから、ぎくしゃくしていた袁世凱と朝鮮との関係が好転した[30]。

朝鮮情勢の安定化をめぐる動き [編集]
旧来、朝鮮の対外的な安全保障政策は、宗藩関係(宗主と藩属)にもとづき、清一辺倒であった。しかし、1882年(明治15年)の壬午事変前後から、清の「保護」に干渉と軍事的圧力[31]がともなうようになると(「属国自主」[32]の転換)、朝鮮国内で清との関係を見直す動きがでてきた。たとえば、急進的開化派(独立党)は、日本に頼ろうとして失敗した(甲申政変)。朝鮮が清の「保護」下から脱却するには、それに代わるものが必要であった[33]。

清と朝鮮をのぞく関係各国には、朝鮮情勢の安定化案がいくつかあった。中立化(多国間で朝鮮の中立を保障)[34]、単独保護(一国が朝鮮を保護)、共同保護の3つである。そして日清両国の軍事力に蹂躙(じゅうりん)された甲申政変が収束すると、ロシアを軸にした提案が出された(ドイツのソウル駐在副領事ブドラーの朝鮮中立化案、のちに露朝密約事件の当事者となるメレンドルフのロシア単独保護)。つまり、朝鮮半島をめぐる国際情勢は、日清朝の三国間関係から、ロシアを含めた関係に移行していた。そうした動きに反発したのがロシアとグレート・ゲームを繰り広げ、その勢力南下を警戒するイギリスであった。イギリスは、もともと天津条約(1885年)のような朝鮮半島の軍事的空白化に不満があり、日清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していた。そして1885年(明治18年)、アフガニスタンでの紛争をきっかけに、ロシア艦隊による永興湾(元山沖)一帯の占領の機先を制するため、4月15日に巨文島を占領した[35]。しかしイギリスの行動により、かえって朝鮮とロシアが接近し(第一次露朝密約事件)、朝鮮情勢は緊迫[36]することとなった[37]。

朝鮮情勢の安定化の3案(中立化、単独保護、共同保護)は、関係各国の利害が一致しなかったため、形式的に実現していない。たとえば、第一次露朝密約事件後、イギリスが清の宗主権を公然と支持し、清による朝鮮の単独保護をうながしても、清の北洋通商大臣李鴻章が日露両国との関係などを踏まえて自制した。もっともイギリスは、1891年(明治24年)の露仏同盟やフランス資本の資金援助によるシベリア鉄道建設着工などロシアとフランスが接近する中、日本が親英政策をとると判断し、対日外交を転換した。日清戦争前夜の1894年(明治27年)7月16日、日英通商航海条約に調印し、日本側に立つことを明らかにした[38]。結局のところ、朝鮮は、関係各国の勢力が均衡している限り、少なくとも一国の勢力が突出しない限り、実質的に中立状態であった[39]。

日本の軍備拡張 [編集]
明治維新が対外的危機をきっかけとしたように、西洋列強の侵略の可能性に備えるため、国防とくに海防は、重要な政治課題の一つであった。しかし、財政の制約、また血税騒動と士族反乱を鎮圧するため、海軍優先の発想と主張があっても、陸軍(治安警備軍)の建設が優先された。もっとも、軍事以外の課題が山積しており、富国強兵のうち「強兵」を図るようなものでなかった。ちなみに現役陸軍軍人・軍属数は、西南戦争前年の1877年(明治10年)が39,412人、日清戦争前年の1893年明治26年)が73,963人。一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、1877年度が19.0%(陸軍12.5%、海軍6.5%)、1893年度が27.0%(陸軍17.4%、海軍9.6%)である[40]。なお、1873年明治6年)1月に制定された徴兵令は、日清戦争までに大改正が三回あった。その主眼は、徴兵の不公平感を緩和し、徴兵忌避を防止することにあり、また一年志願制の導入など高学歴者に特例をもうけた(当初、専門知識が必要な衛生兵養成のために導入され、その後、動員に不可欠な予備役将校の養成としても運用された)。

1880年明治13年)11月、陸軍トップの山縣有朋が大国、清の軍備拡張(造船所と軍需工場と砲台の建設など)への警戒感を天皇に上奏し(「隣邦兵備略表」)、東京湾の砲台建設費245万円が10年にわけて下附されることとなった[41]。しかし、軍拡の大きな転機は、2年後に朝鮮で勃発した壬午事変であった。事変直後の1882年(明治15年)8月15日、山縣は煙草税増税による軍拡を、9月岩倉具視は清を仮想敵国とする海軍増強とそのための増税を建議した。12月、政府は、総額5,952万円(ちなみに同年度の一般会計歳出決算額7,348万円)の「軍拡八カ年計画」を決定した(陸軍関係1,200万円、軍艦関係4,200万円、砲台関係552万円)[42]。同計画にもとづいて陸軍が3年度後からの兵力倍増を、海軍が翌年度からの48隻の建艦計画等をたてた。その結果、一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、翌1883年(明治16年)度から20%以上で推移し、「軍拡八カ年計画」が終わっていた1892年(明治25年)度の31.0%が日清戦争前のピークとなった[43]。

軍拡路線がつづいた背景には、壬午事変後の国際情勢があった。たとえば、上記のように1880年明治13年)に清の軍拡を警戒していた山縣は、8年後に伊藤博文内閣総理大臣に対し、「我国の政略は朝鮮を……自主独立の一邦国となし、……欧州の一強国、事に乗じて之〔朝鮮〕を略有するの憂いなからしむに在り」と上申した(「軍事意見書」)。現実に1884年明治17年)〜翌年の清仏戦争ベトナムがフランスの保護領に)、1885年(明治18年)〜1887年(明治20年)のイギリス艦隊による朝鮮の巨文島占領(ロシア艦隊による永興湾一帯の占領の機先を制した)、露朝密約事件(ロシアと朝鮮の接近)、ロシアのシベリア横断鉄道敷設計画(1891年(明治24年)起工)があり、また当時アフリカでは西欧列強による勢力分割と植民地化が急速に進んでいた。その上、1884年明治17年)の甲申政変(日清の駐留軍が武力衝突)、1886年明治19年)の清艦隊(最新鋭の巨艦「定遠」と「鎮遠」など)来航と長崎事件など、清と交戦する可能性もあった。

ただし、日清衝突の可能性が軍拡をうながす一因であったものの、1880年代の日本軍は、大陸で戦闘できるような能力がなかったとの見解もある[44]。また当時、日清間の戦争は、海軍力で優位にたつ大国の清が日本に侵攻するとの想定で考えられていた(1885年(明治18年)10月に就役した清の「定遠」は、同型艦鎮遠」とともに当時、世界最大級の30.5cm砲を4門そなえ、装甲の分厚い東洋一の堅艦であり、日本海軍にとって化け物のような巨大戦艦であった)。なお1885年(明治18年)5月、兵力倍増の軍拡計画にそった鎮台条例改正により、戦時に6人の鎮台司令官が師団長になること(戦時六箇師団体制)が定められた(1878年明治11年)以後、戦時に鎮台は旅団、東部・中部・西部の監軍部長が師団司令官になることとされていた。つまり戦時三箇師団体制)。1888年明治21年)5月、鎮台制から師団制に移行し、常設六箇師団体制になった(1891年に再編された近衛師団を追加)。機動性の高い師団への改編は、「国土防衛軍」から大陸進出を目指す「外征軍」への転換と解釈されることが多いものの、機動防御の側面など異なる解釈もある[45]。1890年代に入ると、陸軍内では、従来の防衛戦略にかわり、攻勢戦略が有力となり始めていた。しかし、海軍力に自信がなかったため、後記のとおり、日清戦争大本営「作戦大方針」に制海権で三つの想定があるように、攻勢戦略に徹しなかった。ちなみに戦時中、元勲のひとり山縣第一軍司令官は、同じく元勲の井上馨あてに「平壌陥落は実に意外の結果」で、「ひきつづき〔黄海〕海戦大捷これまた予想の外」と書き送った[46]。

戦争の経過 [編集]


日清戦争当時の海戦の映像 開戦期 [編集]
朝鮮国内の甲午農民戦争 [編集]
詳細は「甲午農民戦争」を参照

1890年代の朝鮮では、日本の経済進出がすすむ中(輸出の90%以上、輸入の50%を占めた)、米・大豆価格の高騰と地方官の搾取、賠償金支払いの圧力などが農村経済を疲弊させた[47]。 1894年(明治27年)春、朝鮮で東学教団構成員の全琫準を指導者として、民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱甲午農民戦争東学党の乱)が起きた。5月31日、東学農民軍が全羅道首都全州を占領する事態となった。朝鮮政府は、清への援兵を決める一方、東学農民軍の宣撫にあたった。なお、6月10日または11日、清と日本の武力介入を避けるため、東学農民軍の弊政改革案を受け入れて全州和約を結んだとする話が伝わっている(一次資料が発見されていない)。

日清の朝鮮出兵 [編集]
当時、伊藤博文内閣総理大臣であった。第2次伊藤内閣は、3月に解散総選挙(第3回)を行ったものの[48]、5月12日に招集された第六議会で難局に直面していた(貴族院も内閣を批判)。5月30日、衆議院で内閣弾劾上奏案が可決されたのである[49]。衆議院が招集されてわずか3週間後の6月2日、伊藤内閣は、衆議院の解散(総選挙(第4回))と、清が朝鮮に出兵した場合、公使館と居留民を保護するために混成旅団(戦時編制8,000人)を派遣する方針[50]を閣議決定した。6月5日、日本は、敏速に対応するため、参謀本部内に史上はじめて大本営を設置した(形式上戦時に移行)。

その6月5日、清の巡洋艦2隻が仁川沖に到着。日清両国は、天津条約にもとづき、6日に清が日本に対し、翌7日に日本が清に対し、朝鮮出兵を通告した。清は、8日から12日にかけて陸兵2,400人を牙山に上陸させ、25日に400人を増派した[51]。対する日本は、6月10日、帰国していた大鳥圭介公使と海軍陸戦隊430人を首都漢城に入らせた。さらに6月16日、混成旅団の半分(約4,000人)を仁川に上陸させた。しかし、すでに朝鮮政府と東学農民軍が停戦しており、天津条約上も日本の派兵理由がなくなった。軍を増派していた清も、漢城に入ることを控え、牙山を動かなかった。

日本軍の王宮占領・日清開戦 [編集]
朝鮮は、日清両軍の撤兵を要請したものの、両軍とも受け入れなかった。6月15日に伊藤内閣は、1)朝鮮の内政改革[52]を日清共同で進める、2)それを清が拒否すれば日本単独で指導する方針を閣議決定した。日本政府は、当初の出兵目的(公使館と居留民保護)を変更し、日清交渉に新たな課題(紛争の火種)を持ち込むことにしたのである。6月21日、清が日本の提案を拒否すると、伊藤内閣と参謀本部・海軍軍令部の合同会議で、中止していた混成旅団残部の輸送再開を決定した。翌22日、御前会議が行われ、23日の朝、清の駐日公使に内政改革の協定提案が送付された(第一次絶交書)。開戦の危機が一気に高まった。

イギリスの調停案提示により、開戦の気運に急ブレーキがかかったものの、清の総理衙門がその調停案を拒絶した。7月11日、日本政府は、清の調停拒絶を非難し、清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議決定した。7月15日、北洋通商大臣の李鴻章は、開戦の可能性が高まったことを受け、牙山の清軍に平壌への海路撤退を命じた。18日、海路撤退が困難なため、増援を要求してきた牙山の清軍に対し、2,300人を急派することにした(豊島沖海戦の発端)。なお7月16日、条約改正交渉の結果、日英通商航海条約が調印され、イギリスが日本の側に立つことが明らかになった(ただし、8月27日の勅令による批准公布まで発表が伏せられた)。

7月20日午後、大鳥公使は、朝鮮に対し、その「自主独立を侵害」する清軍の撤退と清朝間の条約廃棄(宗主・藩属関係の解消)について3日以内に回答するよう申し入れた。朝鮮が清軍を退けられないのであれば、日本が代わって駆逐する、との含意があった[53]。22日夜半にとどいた朝鮮政府の回答は、1)改革は自主的に行う、2)乱が治まったので日清両軍の撤兵、であった。

7月23日午前2時、混成旅団の二箇大隊が漢城の電信線を切断し、朝鮮王宮を3時間にわたり攻撃した後、占領した。開戦の名義を立てるため、政府内の閔氏一族を追放した上で、大院君を再び担ぎだして新政権を樹立し、朝鮮から日本に清軍撃退を要請させる意図であった。2日後の25日に豊島沖海戦が、29日に牙山攻撃が行われた後、8月1日に日清両国が宣戦布告をした[54]。なお、日本政府の開戦工作について明治天皇が「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していた。

豊島沖海戦・高陞号事件 [編集]
詳細は「豊島沖海戦」を参照

7月25日、豊島沖で日本海軍第1遊撃隊(司令官坪井航三少将、「吉野」「浪速」「秋津洲」)が清の軍艦「済遠」「広乙」と遭遇し、海戦が始まった。優勢な日本海軍の応戦の前に「済遠」は、逃走をはかったため、直ちに「吉野」と「浪速」が追撃した。その途上、清の軍艦「操江」と汽船「高陞号」(英国商船旗を掲揚)と遭遇した。「高陞号」は、戦争準備行動として仁川に清国兵約1,100人を輸送中であった。第1遊撃隊司令官の命により、「浪速」艦長東郷平八郎大佐は「高陞号」に停船を命じて臨検を行い、拿捕しようとした。しかし、数時間におよぶ交渉も、清側が拿捕に同意せず、抵抗し続けたため、「高陞号」の拿捕を断念して撃沈した(高陞号事件)。その後、英国人船員ら3人を救助し、清の兵約50人を捕虜とした。

豊島沖海戦で日本側は死傷者と艦船の損害がなかったのに対し、清側は「済遠」が大破し、「操江」が「秋津洲」に鹵獲され、「広乙」も破壊された。なお、「高陞号」の撃沈について一時、英国で反日世論が沸騰した。しかし、英国政府が日本寄りだった上に、英国での国際法の権威ジョン・ウェストレーキとトーマス・アースキン・ホランド博士により、国際法に則った処置であることがタイムズ紙を通して伝わると、英国世論が沈静化した。

成歓・牙山の戦い [編集]
詳細は「成歓の戦い」を参照

6月12日に清軍が牙山に上陸し、7月23日で4,165人の規模になっていた。7月25日に朝鮮政府から大鳥圭介公使に対し、牙山の清軍撃退が要請されると、7月26日に第9歩兵旅団(旅団長大島義昌少将)にその旨が伝達された。7月29日に日本軍は牙城にこもる清軍を攻撃した。午前2時、清軍の襲撃により、松崎直臣陸軍歩兵大尉ほかが戦死した(日本側初の戦死者)。午前7時、第9旅団は、成歓の敵陣地制圧に成功した。両作戦では、日本側が死傷者82人を出したのに対し、清側が死傷者500人以上を出し、武器等を放棄して平壌へ敗走した。

両国の戦争指導と軍事戦略 [編集]
日本 [編集]
日本は、日清戦争全体をとおして主戦論で固まり、政治と軍事が統一されていた[55]。開戦前の5月30日、衆議院で内閣弾劾上奏案を可決するなど、伊藤内閣と激しく対立する硬六派も、開戦後、その姿勢を大きく変えた。広島に招集された臨時第七議会で、軍事費予算を満場一致で可決するなど、伊藤内閣の戦争指導を全面的に支援した。つまり開戦により、反政府的な排外主義的ナショナリズムが政府支持に変わったのである。民間でも、義勇兵運動の広がり、福沢諭吉や有力財界人などによる軍資金献納など、「挙国一致」の雰囲気が醸成された。

1894年(明治27年)6月5日、参謀本部内に史上はじめて大本営が設置され、形式上戦時に移った。大本営の「作戦大方針」は、渤海湾頭で清と雌雄を決することにあった。それの第一期作戦は、朝鮮に第五師団を送って清軍と対峙、ほかの部隊が内地守備と出征準備、海軍が清の北洋水師(北洋艦隊)掃討と制海権掌握、とされた。第二期作戦は、海軍力に自信がなかったこともあり、制海権の帰趨(きすう)により、三つが想定された。1)制海権を掌握した場合、渤海湾北岸に上陸し、西進して直隷平野(北京周辺)で決戦を遂行。2)日清ともに制海権を掌握していない場合、朝鮮に陸軍を増派し、朝鮮の独立確保に努力をつづける。3)制海権を失った場合、朝鮮に残された第五師団を援助しつつ、国内を防衛とされた。8月5日、宮中に大本営が移されると、参謀総長から上記の「作戦大方針」が上奏された。大本営は、第二期作戦の2)を想定し、同月14日、本年の作戦を朝鮮半島の軍事的確保とすることを各師団長に訓示した。

なお、当時の戦争指導は、政治主導であった[56]。天皇の特旨により、本来メンバーでない伊藤首相が大本営に列席し、軍事作戦に口を出すこともあった。政治が軍事をリードできた要因として、第一に統帥権独立の制度をつくった当事者達であったため、同制度の目的と限界を知っており、実情に合わないケースで柔軟に対処できたことが挙げられる。第二の要因として、指導者層の性格が挙げられる。指導者の多くは、政治と軍事が未分化の江戸時代に生まれ育った武士出身であり、明治維新後それぞれの個性と偶然などにより、政治と軍事に進路が分かれた。したがって、政治指導者は軍事に、軍事指導者は政治に一定の見識をもっており、また両者は帝国主義下の国際環境の状況認識がほぼ一致するとともに、政治の優位を自明としていた(陸軍士官学校海軍兵学校卒の専門職意識をもつエリート軍人が軍事指導者にまで上りつめていない時代)。関連して藩閥の存在も挙げられ、軍事に対する「政治の優位」イコール「藩閥の優位」でもあった。ちなみに、そうした要因は、日露戦争後しだいに失われ、軍が自立化することとなる。

清 [編集]
挙国一致の日本と交戦する清は、そもそも平時から外交と軍事が不統一であった。光緒帝の親政下、外交・洋務(鉱山や鉄道に関する政策等)を所管する総理衙門(慶親王等)と軍務を所管する軍機処(礼親王等)とが分離したままであった(なお9月29日、戦争指導のために外交と軍事を統括するポストが新設)。その上、外交が一体化されていなかった。貿易港全体を管轄するとはいえ、決定権のない総理衙門(首都北京)と、天津港に限られるとはいえ、欽差大臣として全権を持つ北洋通商大臣李鴻章(天津)とが二元的に外交を担っていたのである。とくに対朝鮮外交は、対ロシア交渉で譲歩を引き出したイリ条約締結年の1881年明治14年)以降、礼部から武力をもつ李鴻章の直轄になり、朝鮮で総理朝鮮交渉通商事宜をつとめる袁世凱と密接に連絡をとる李が総理衙門と対立していた。

軍事も外交と同じように、開戦時に一体化されていなかった。常備する陸海軍の兵権が分散されていたこともあり、当初、日本との開戦は、国家を挙げた戦争ではなく、北洋通商大臣の指揮するものと位置づけられた。その大臣の李鴻章は、もともと渤海沿岸の3省(直隷・山東・奏天)の海防とそのための兵権、3省の総督に訓令できる権限、朝鮮出兵の権限を与えられていた。また、北洋水師(北洋艦隊)を統監するとともに、私費を投じて編成した「勇軍」の一つ(いわゆる北洋陸軍)を抱えていた。しかし開戦後、盛京将軍宋慶に隷属する東三省の「錬軍」(正規軍八旗の流れをくむ精鋭部隊)も前線に投入されたため、二元統帥におちいる可能性があった[3](なお12月2日、欽差大臣の劉坤一に山海関以東の兵権が与えられた)。

このように外交と軍事が錯綜する清には、開戦直前、李鴻章や官僚の一部、西太后等の無視できない戦争回避派がいた。7月16日、軍機処と総理衙門などの合同会議では、開戦自重を結論とし、18日に上奏された。戦争回避派の李鴻章は、結果的に兵力を逐次投入してしまう。しかし9月15日、平壌で敗れると、李鴻章は戦略を大きく転換した。19日、上奏文により、日清戦争について北洋通商大臣の指揮する戦闘から、国家を挙げての戦争と位置づけなおし、持久戦をとるよう提案した。持久戦で西洋列強の調停を期待し、それから講和に入る構想であった。9月29日、恭親王に外交・軍事を統括する最重要の権限が与えられる等、ようやく清でも国家を挙げて戦う体制が整えられはじめた。

しかし、肝心な兵力にも問題があった。攻守を左右する制海権で重要となる海軍力は、海軍費が西太后の欲する頤和園修復に使われた[57]など、増強が進んでいなかった。たとえば、清の4 艦隊(北洋・南洋・福建・広東)のうち、戦闘能力の最も高い北洋艦隊でさえ、開戦4年前の1890年(明治23年)に就役した巡洋艦「平遠」(排水量2,100t)が最後に配備された新造艦であった。実質的に制海権の帰趨(きすう)を決める黄海海戦では、1892年(明治25年)に就役し、広東水師(広東艦隊)から編入されていた「広丙」(排水量1,000t)が参加するものの、対する日本艦隊は、1891年(明治24年)以降に就役した巡洋艦6隻(いずれも平遠を上回る排水量で、うち4隻が4,200t級)[58]が参加することとなる。なお開戦当初、北洋艦隊を統監する李鴻章は、艦隊決戦を避ける持久戦をとった(上記の大本営「作戦大方針」によれば、第一期作戦で日本海軍に北洋艦隊掃討と制海権掌握の任務が与えられていたため、北洋艦隊の主力が軍港にこもっている限り、日本軍の作戦が制約されるはずであった(実際に日清戦争では山東作戦が、10年後の日露戦争では旅順攻囲戦が行われる)。しかし李鴻章は、兵力温存策が光緒帝らの批判にさらされ、北洋艦隊を出撃させざるを得なくなり、結果的に黄海海戦制海権をほぼ失うこととなる)。

問題は、海軍力だけでなく、陸軍力にもあった。開戦時、常備軍の錬軍と勇軍には、歩862営(1営当たり平均350人)、馬192営があり、その後、新募兵の部隊が編成された。しかし、そうした諸部隊の間には、士気や練度や装備などの差があり、文官の指揮で実戦に参加する部隊もあるなど、近代化された日本軍と対照的な側面が多かった。なお清の陸兵は、しばしば戦闘でふるわず、やがて日本側に「弱兵」と見なされることとなる(日本の従軍記者は、清の弱兵ぶり、木口小平など日本兵の忠勇美談を報道することにより、結果的に後者のイメージを祖国のために戦う崇高な兵士にして行った[59])。

展開期 [編集]
大日本大朝鮮両国盟約 [編集]

朝鮮人兵士と中国人捕虜8月26日、日本は、影響下におく朝鮮と大日本大朝鮮両国盟約を締結した[60]。朝鮮は、日清戦争を「朝鮮の独立のためのもの」(第一条)とした同盟約にもとづき、国内での日本軍の移動や物資の調達など、日本の戦争遂行を支援し、また自らも出兵することとなった[61]。

平壌の戦い [編集]
詳細は「平壌の戦い (日清戦争)」を参照


平壌の戦い8月、清は、平壌に兵員1万2千人を集中させていた。9月15日、日本軍が攻撃を開始。同日16時40分、清軍は白旗を掲げ、翌日の開城を約した。ところが、約を違えて撤退をはかり、同日夜に日本軍が入城した。なお戦闘中、歩兵第18連隊長佐藤正大佐が銃弾を受け、左足切断の重傷を負った。

黄海海戦 [編集]
詳細は「黄海海戦 (日清戦争)」を参照


連合艦隊旗艦松島
清国軍艦神符
元寇史料館9月17日、黄海上で日本艦隊と清の北洋艦隊とが遭遇し、12時50分「定遠」の砲撃から戦端が開かれた。日本艦隊は、連合艦隊司令長官伊東祐亨中将ひきいる旗艦「松島」以下8隻と第一遊撃隊司令長官坪井航三少将ひきいる旗艦「吉野」以下4隻であり、北洋艦隊は丁汝昌提督ひきいる「定遠」「鎮遠」以下14隻と水雷艇4隻であった。日本艦隊は旗艦「松島」など4隻が大中破したものの、、北洋艦隊の「超勇」「致遠」「経遠」等5隻を撃沈し、6隻を大中破「揚威」「広甲」を擱座させた。

なお海戦後、北洋艦隊の残存艦が威海衛に閉じこもったため、日本が制海権をほぼ確保した(のちに制海権の完全確保のため、威海衛攻略戦が行われることとなる)。

日本軍の鴨緑江渡河 [編集]
詳細は「鴨緑江作戦」を参照

10月24日、山縣有朋ひきいる 第一軍の一部が鴨緑江渡河を、翌25日払暁、軍主力が渡河を開始した。清軍が撤退したため、進撃した日本軍は九連城を無血占領した。

旅順攻略・旅順虐殺事件 [編集]
詳細は「旅順口の戦い」、「旅順虐殺事件」をそれぞれ参照

第一軍が鴨緑江渡河を開始した10月24日、大山巌大将ひきいる第二軍が金州に上陸した。11月6日、金州城の攻略に成功した。11月21日、日本軍1万5千人が清軍1万3千人弱に攻撃をした。清側の士気が極めて低くかったこともあり、堅固な旅順要塞がわずか1日で陥落した。日本側は戦死40人、戦傷241人、行方不明7人を出したのに対し、清側は戦死4,500人、捕虜600人を出した。

攻略そのものに問題がなかったものの、その後、大きな問題が発生した。『タイムズ』(1894年11月28日付)や『ニューヨーク・ワールド』(同年12月12日付)により、「旅順陥落の翌日から四日間、非戦闘員・婦女・幼児などを日本軍が虐殺した」と報じられたのである。虐殺の有無と犠牲者数について諸説があるものの、実際に従軍して直接見聞した有賀長雄は、民間人の巻き添えがあったことを示唆した。現在、その事件は、旅順虐殺事件(英名:the Port Arthur Massacre)として知られている。

なお同事件は、外交上、深刻な事態を招きかねなかった。たとえば、条約改正交渉中のアメリカでは、事件の報道によって一時、上院で条約改正を時期尚早との声が大きくなり、重要な外交懸案が危殆に瀕した。そのため陸奥宗光は、『ニューヨーク・ワールド』に弁明する事態に陥った。しかし1895年2月、アメリカ上院で日米新条約が批准された。

東学農民軍の再蜂起と鎮圧 [編集]
朝鮮では、東学が戦争協力拒否を呼びかけやこともあり、軍用電線の切断、兵站部への襲撃と日本兵の捕縛、殺害など反日抵抗がつづいた。10月9日、親日政権打倒をめざす「斥倭斥化」(日本も開化もしりぞける)をスローガンに、全琫準ひきいる東学農民軍が再蜂起した[62]。大院君は、鎮圧のために派兵しないよう大鳥公使に要請したものの、将来ロシアの軍事介入を警戒した日本は、11月初旬に警備用の後備歩兵独立第十九大隊を派兵した。鎮圧部隊は、日本軍2,700人と朝鮮政府軍2,800人、各地の両班士族や土豪などが参加する民堡(みんぽ)で編成された。11月下旬からの公州攻防戦で勝利し、東学農民軍を南方へ退け、さらに朝鮮半島の最西南端海南・珍島まで追いつめて殲滅(せんめつ)した。なお、5か月間の東学農民軍の戦闘回数46回、のべ134,750人が参加したと推測されている[63]。

講和期 [編集]
陸海軍共同の山東作戦(北洋艦隊の降伏) [編集]

1895年(明治28年)威海衛の戦い戦勝祝賀の慶應義塾大学炬火行列大運動会(カンテラ行列)詳細は「威海衛の戦い」を参照

作戦の目的は、第二期作戦(直隷決戦)にむけて制海権を完全に掌握するため、威海衛湾に立てこもる北洋艦隊の残存艦艇と、海軍基地の破壊にあった。1895年(明治28年)1月20日、4艦の砲撃援護のもと、山東半島先端に海軍陸戦隊等が上陸し、つづいて歩兵第16連隊等が栄城湾に上陸した。26日に第二師団と第六師団が並進をはじめ、30日に激戦の末、威海衛湾の南岸要塞群を攻略。清の陸兵が撤退したため、2月2日までに日本軍は、北岸要塞群などを無血占領し、湾の出入口にある要衝、劉公島と日島、停泊中の北洋艦隊を包囲した。なお1月30日、占領砲台から敵情を視察していた歩兵第11旅団長大寺安純少将が敵艦の砲撃を受け、戦死した。

孤立しても、劉公島・日島の守備隊と北洋艦隊の残存艦艇は、健在であり、旗艦「定遠」の30センチ砲などで抗戦をつづけた。しかし、水雷艇による魚雷攻撃に加え、日本艦隊の艦砲および対岸から日本軍に占領された砲台の備砲が砲撃をつづけ、清側の被害が大きくなると、清の陸兵とお雇い外国人は、北洋艦隊の丁汝昌提督に降伏を求めた。2月11日、降伏を拒否していた丁提督は、李鴻章に打電後、服毒自殺。14日の両軍の合意にもとづき、17日に清の陸海軍将兵とお雇い外国人が解放された。

遼河平原の作戦(遼東半島全域の占領) [編集]
2月、海城で攻防戦にあたっていた第三師団に対し、南東から第五師団が、南西から第一師団などが増援として送られ、遼河平原で掃討戦が行われた。2月24日、営口南の太平山では、第一師団が苦戦した上に[64]、戦闘とその後の戦場掃除で約4,000人の凍傷者がでた。3月4日に第三師団と第五師団が牛荘(海城市牛荘鎮)を、3月6日に第一師団が営口を攻略した。3月9日には、日清戦争最大の三箇師団が参加し、遼河の渡河地点にある要衝・田荘台を攻略した。しかし、田荘台の保持にさける兵力がないため、野津道貫第一軍司令官は、占領直後に全軍撤退と清軍の反攻拠点にならないよう「田荘台焼夷」とを命じ、全市街を焼き払わせた。

なお作戦完了により、第五師団と後備諸隊が西から営口、牛荘、鞍山站、鳳凰城、九連城までの広大な地域の守備にあたり、残りの六箇師団と臨時第七師団(屯田兵団の再編)で第二期作戦(直隷決戦)の準備が始まった。その後、開戦以来、国内にとどまっていた近衛師団と第四師団が遼東半島に移動した。

英米の和平仲介 [編集]
開戦直後からイギリスは講和を斡旋しており、清も1895年1月に講和使節を日本に派遣した。2月1日に広島で第一次講和会議が開かれるものの、翌2日、日本が委任状不備を理由に交渉を拒絶した。なお、そのとき日本は、戦後の領有を前提に遼東半島の完全占領を目指していた(遼河平原の作戦)。同作戦が終了していた3月下旬から、アメリカの仲介により、日本側が伊藤博文陸奥宗光、清側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれることとなる。

台湾海峡の要衝、澎湖列島の占領 [編集]
台湾取得の準備として陸海軍は、共同で台湾海峡にある海上交通の要衝、澎湖列島(馬公湾が天然の良港)を占領することとした。南方派遣艦隊(司令長官伊東祐亨中将)の旗艦吉野が座礁し、予定より遅れたものの、3月23日、後備兵で編成された混成支隊が澎湖列島に上陸をはじめた。海軍陸戦隊が砲台を占領するなど、26日に作戦が完了。ただし、上陸前から輸送船内でコレラが発生しており、しかも島内は不衛生で飲料水が不足した。そのため、上陸後にコレラがまんえんし、陸軍の混成支隊6,194人(うち民間人の軍夫2,448人)のうち、発病者1,945人(908人)、死亡者1,257人(579人)という大きな被害がでた。同支隊のコレラ死亡率20.3%(23.7%)[65]。

なお、台湾領有は、松方や陸奥、伊藤ら日本政府要人も1894年以来、その領有の必要性や目的を意見書「威海衛を衝き台湾を略すべき方策」(伊藤)、「台湾島鎮撫策に関して」(陸奥)などでマレー半島南洋群島に進出する根拠地、中国大陸に将来版図を展開する際の根拠地とする意見を表明していた[66]。

休戦・講和 [編集]
3月19日、清の全権李鴻章が門司に到着した。下関での交渉の席上、李鴻章は、日本側の台湾割譲要求に対し、日本軍が台湾本土に入っておらず筋が通らないと大いに反論した。交渉中の3月24日、李鴻章が日本人暴漢(壮士)に狙撃される事件が起こり、あわてた日本側が早期決着に動いたため、3月30日に21日間の停戦に合意した。4月17日に 日清講和条約が調印され、5月8日に清の芝罘で批准書が交換され、条約が発効した。

講和条約の主な内容は、次の通り。

清は朝鮮が独立国であることを認め、独立自主を損害するような朝鮮から清に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
清は遼東半島・台湾・澎湖諸島の主権、城塁、兵器製造所、官有物を永遠に日本に割譲する。
清は賠償金2億両(テール:約3億円)を金で支払う。
割譲地の住人は居住地を選択し、条約批准2年後も割譲地に住んでいる場合は日本国民とみなす。
清と欧州各国間の条約を基礎に日清通商航海条約を締結する。
新たに沙市、重慶、蘇州、杭州の4港を開港する。
日本人は清国内の開市、開港場での各種製造業に従事できること。
日本は3か月以内に清領土内の日本軍を引き揚げる。ただし賠償金支払いに不備があれば引き揚げない。
清は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。
日本人俘虜を返還し、俘虜および日本軍に協力した清国人の虐待や処刑を禁止する。
戦闘は条約批准の日から停止する。
条約批准は芝罘で明治28年5月8日(光緒21年4月14日)に交換する。
上記の6と7は、イギリスが要求して、まだ実現していなかったものであり、それの立場を代弁していた節がある。また講和条約の一部は、最恵国待遇によって西洋列強にも適用されたため、以後、清に対する列強の経済進出と領土分割がより加速されることとなった。なお、講和条約の発効により、清と朝鮮の宗藩(宗主・藩属)関係が解消した(第一条の規定)。

三国干渉 [編集]
詳細は「三国干渉」を参照

ロシアは、満洲での権益拡大を狙っていたため、日本への遼東半島割譲に反発した。4月23日、フランス・ドイツとともに、日本に対して清への遼東半島還付を要求した(三国干渉)。5月4日、日本は、イギリスとアメリカが局外中立の立場をとったこともあり、遼東半島放棄を閣議決定した。11月8日、清と遼東還付条約を締結し、還付報奨金として3,000万両を得た(第二条)。

台湾平定(乙未戦争) [編集]
詳細は「乙未戦争」を参照

割譲前の台湾 [編集]
清は、反清勢力の降伏(1683年)によって台湾を支配下におくと、反乱拠点にならないこと以外、積極的に統治をしなかった。しかし、天津条約(1858年)で台湾の開港を認めたこともあり、列強などが台湾に関心を示すようになったため[67]、1885年(明治18年)台湾を省に格上げた。初代台湾巡撫の劉銘伝により、鉄道敷設などインフラ整備が進められた。当時の台湾は、阿片が蔓延していたものの、貿易収支が黒字であった[68]。

清は、1895年(明治28年)4月17日の日清講和条約調印により、日本への台湾割譲を一度受け入れたものの、5月1日在仏清国使節の王之春に対し、正式に台湾割譲阻止を命令した[69][70]。また台湾の官吏は、清の敗北が濃厚になった1894年11月、日本の台湾領有を回避するため、張之洞と弟子の台湾巡撫唐景粔が台湾をイギリスやフランスに貸し出し、西洋列強に介入させようとした。三国干渉に日本が屈服すると、張と唐は、翌1895年(明治28年)5月25日、清朝宗主国とし、唐景粔を総督とする「台湾民主国」の建国を宣言した。

台湾平定 [編集]
日本は、5月8日の講和条約発効後、樺山資紀海軍大将を台湾総督とし、近衛師団を台湾に派遣した。5月29日、近衛師団が台湾北部へ上陸すると、唐総督らは台湾を脱出した。しかし、民主国政府から大将軍に任じられた清仏戦争の英雄劉永福が台北陥落後の抵抗戦を担い、また台南で地元民(高山族)を中心とする頑強な抵抗がつづいた。そのため、樺山総督は、6月に増援を要請した。日本は、遼東半島から帰還する予定の第二師団を急遽、台湾に派遣し、二箇師団を上まわる兵力で平定にあたらせた。しかし、武装住民による抵抗のほか、赤痢マラリア脚気による被害で8月中旬以後、日本軍の罹患者が5割を超える事態となった。11月18日、大本営に全島平定を報告し、ようやく一区切りついた。台湾総督府条例が公布(軍政から民政に移行)された翌日、1896年(明治29年)4月1日に大本営が解散された(形式上戦時の終了)。

日本の動員兵力5万のうち、戦死者が164人、マラリア等による病死者が近衛師団北白川宮能久親王はじめ4,642人にのぼった。女性子供も参加したゲリラ戦などによって抵抗した台湾側は、兵士と住民およそ1万4千人が死亡したと推測されている[71]。

年表 [編集]
1894年

3月 東学党、朝鮮全羅道で蜂起(甲午農民戦争
5月27日か28日 杉村濬駐朝代理公使、朝鮮が「兵を支那に借り」る動きありと通報
5月31日 朝鮮政府、清への援兵を決議。伊藤内閣、内閣弾劾上奏決議案が可決されて難局に直面
6月1日 杉村駐朝代理公使、「袁世凱いわく朝鮮政府は清の援兵を請いたり」と打電
6月2日 伊藤内閣、衆議院解散と公使館・居留民保護のための朝鮮出兵閣議決定
6月4日 清の北洋大臣李鴻章朝鮮出兵を指令
6月5日 参謀本部内に大本営を設置(形式上戦時に移行)
6月6日 天津条約に基づき、清が日本に朝鮮出兵を通告
6月7日 同条約に基づき、日本も清に朝鮮出兵を通告
(以後、日清両軍が朝鮮に上陸するとともに、日清間と日朝間の交渉、さらにイギリスとロシアの調停が行われる。)

7月16日 日英通商航海条約の調印(領事裁判権撤廃を達成)。清、軍機処などの合同会議で開戦自重を結論とし、18日に上奏
7月20日 大鳥駐朝公使、朝鮮政府に対して最後通牒(回答期限22日)
7月23日 日本軍、朝鮮王宮を占領。日本側の圧力で、大院君が国政総裁に就任
7月25日 大院君、清との宗藩関係解消を宣言し、大鳥公使に牙山の清軍撤退を依頼。豊島沖海戦(高陞号事件)
7月29-30日 日本の混成旅団、清軍の駐屯する成歓と牙山を占領
8月1日 日清両国、互いに宣戦布告
8月5日 大本営参謀本部内から宮中に移る。
8月26日 朝鮮で親日政権が樹立
9月13日 大本営、戦争指導のために広島移転(広島大本営
9月15日 明治天皇、広島に入る。平壌攻略戦
9月17日 黄海海戦。その結果、日本が制海権をほぼ掌握
9月19日 李鴻章、持久戦(西洋列強の介入を期待)等を上奏
10月24日 第一軍、鴨緑江渡河を開始。第二軍、遼東半島上陸を開始
11月21日 第二軍、旅順口を占領。その後、旅順虐殺事件が発生
1895年

2月1日 広島で清との第一次講和会議(翌日、日本が委任状不備を理由に交渉拒絶)
2月中旬 陸海軍共同の山東作戦完了。日本が制海権を完全に掌握
3月上旬 第一軍、遼河平原作戦完了。日本が遼東半島全域を占領
3月16日 第二期作戦(清との直隷決戦)のため、小松宮彰仁親王が征清大総督に任じられる。
3月19日 講和全権の李鴻章、門司到着(翌日から下関で交渉)
3月24日 李鴻章、壮士に狙撃される(日本、条件を緩和して講和を急ぐ)。
3月30日 日清休戦条約(21日間)の調印
4月17日 日清講和条約の調印(5月8日、発効)
4月23日 ロシア・フランス・ドイツ、清への遼東半島返還を要求(三国干渉)
5月4日 伊藤内閣、遼東半島返還を閣議決定
5月29日 日本軍、割譲された台湾に上陸を開始
5月30日 明治天皇、広島から東京に還幸
8月6日 台湾総督府条例により、台湾で軍政をしく。
10月8日 朝鮮で乙未事変閔妃暗殺事件)発生
11月8日 清と遼東還付条約を締結
11月18日 台湾総督、大本営に全島平定を報告
1896年

2月 朝鮮で親露派のクーデターが成功し(露館播遷)、日本が政治的に後退
3月31日 台湾総督府条例公布により、軍政から再び民政に移行
4月1日 大本営の解散
戦費と動員 [編集]
戦費 [編集]
戦費は、2億3,340万円(内訳:臨時軍事費特別会計支出2億48万円、一般会計の臨時事件費79万円・臨時軍事費3,213万円)となり、開戦前年度の一般会計歳出決算額8,458万円の2.76倍に相当した[72]。うち臨軍特別会計の支出は、陸軍費が82.1%(運送費16.9%、糧食費10.9%、その他54.3%)、海軍費が17.9%(艦船費6.4%、兵器弾薬・水雷費5.0%、その他6.5%)であった[73]。臨軍特別会計の収入は、2億2,523万円であり、主な内訳が公債金(内債)51.9%、賠償金35.0%、1893年度の国庫剰余金10.4%であった(臨軍特別会計の剰余金2,475万円)。ちなみに、1893年度末の日本銀行をふくむ全国銀行預金額が1億152万円であり、上記の軍事公債(1億1,680万円)の引き受けが容易でなく、国民の愛国心に訴えるとともに地域別に割り当てる等によって公債募集が推進された。

動員(軍夫の大規模雇用) [編集]
陸軍は、1893年明治26年)に戦時編制をあらため、翌1894年度から、その新編成が適用された。1894年度の動員計画では、野戦七箇師団[74]と兵站部、守備諸部隊(北海道の屯田兵団をふくむ)など、人員220,580人、馬47,221頭、野戦砲294門を動員できる態勢であった[75]。ちなみに動員計画上、戦時の一箇師団は、18,500人と馬5,600頭で編制されることになっていた。

実際の動員(充員召集)は、第一期作戦で先陣をつとめた第五師団から始まり、1894年7月24日に第六師団が、8月4日に第三師団が、8月30日に第一師団がつづいた。また、10月上旬に第二師団が動員を終えた[76]。その後、遼河平原での作戦が完了すると(1895年3月9日に田荘台を攻略)、第二期作戦(直隷決戦)の準備が始まった。3月16日に参謀総長小松宮彰仁親王が征清大総督に任じられ、動員を終えていた近衛師団と第四師団が広島から遼東半島に向かった。最終的に計画を上まわる240,616人が動員され、そのうち174,017人(72.3%)が国外に出征した。ただし第四師団など、実戦を経験しないまま帰国した部隊もある。また、文官など6,495人、主に国外で運搬に従事する民間人の軍夫[77]10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した(ちなみに10年後の日露戦争では、軍夫の雇用に代わり、軍夫に相当する未教育の補助輸卒を多数動員)。なお、20-32歳の兵役年齢層について戦闘員の動員率5.7%(国外動員率4.1%)と推計される[78]。

近代陸軍のモデルである仏独の陸軍は、鉄道と運河を使えない所で物資輸送を馬に頼っており、また日本陸軍はドイツ陸軍を手本に兵站輸送計画を立てていたにもかかわらず、物資の運搬を人(背負子(しょいこ)と大八車)に頼った主因は、馬と馬糧の制約[79]にあった。とくに馬の制約は、先陣をつとめた第五師団で強かった。同師団は、徴馬管区内の馬が少なかったこともあり、乗馬669頭と駄馬789頭の動員にとどまり(砲兵用の輓馬0頭)、しかも徒歩車輌(大八車)を用意しなかったため、軍夫5,191人(うち兵站部所属1,022人)が駄馬を引き、背負子で物資を運搬した。

軍紀(戦地軍法会議での処罰者数) [編集]
戦地軍法会議による処罰者が1,851人いた[80]。そのうち軍人が約3割、軍夫が約7割を占め、また全体の2割にあたる370人(重罪3人)が陸軍刑法違反で、残り8割の1,481人(重罪38人)が刑法などその他の法令違反であった。

国外動員の陸軍軍人174,017人のうち、500人台(0.3%前後)が処罰され、うち対上官暴行が6人(うち重罪3人)、逃亡罪が11人(軍人以外307人)であった。平時の生活とかけ離れた戦場の中でも、軍紀は、おおむね保たれたと考えられている。その要因に、戦争目的(「弱き」朝鮮の独立を助け、清の「非望」をくじくと表明)が明快であったことが挙げられる。ただし、戦地軍法会議にかけられなかった旅順虐殺事件が発生しており、また被疑者を特定できない等、処罰にいたらなかった刑法犯罪なども当然あったと考えられる。

日本軍の損害 [編集]
日清戦争と台湾平定(乙未戦争)の戦没者数には、さまざまな数値がある。一例が戦死・戦傷死1,567名、病死12,081名、変死176名、計13,824名(戦傷3,973名)[81]。

また、陸軍省医務局編『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、日清戦争と台湾平定(乙未戦争)をあわせて陸軍の総患者284,526人、総病死者20,159人(うち脚気以外16,095人、79.8%)であった(軍夫をふくむ)[82]。しばしば議論の的となった脚気については、患者41,431人、死亡者4,064人(うち朝鮮142人、清国1,565人、台湾2,104人、内地253人[83])であった。なお脚気問題の詳細は、「陸軍での脚気大流行」と「海軍の状況」を参照のこと。

伝染病の流行 [編集]
衛生状態が悪いこともあって戦地で伝染病がはやり[84]、また広島大本営参謀総長有栖川宮熾仁親王が腸チフスを発症したなど、国内にいても必ずしも安全とは言えなかった。戦地入院患者で病死した13,216人のうち、5,211人(39.4%)がコレラによるものであった(陸軍省編「第七編 衛生」『明治二十七八年戦役統計』)[85]。次いで消化器疾患1,906人(14.4%)、脚気1,860人(14.1%)、赤痢1,611人(12.2%)、腸チフス1,125人(8.5%)、マラリア542人(4.1%)、凍傷88人(0.7%)であった。最も犠牲者を出したコレラは、1895年3月に発生して気温の上昇する7月にピークとなり、秋口まで流行した[86]。出征部隊の凱旋により、国内の一部でもコレラが流行したこともあり[87]、その後、宇品での検疫が徹底された[88]。とくに台湾では、暑い季節にゲリラ戦にまきこまれたため、伝染病に苦しみ[89]、近衛師団長の北白川宮能久親王マラリアで陣没し[90]、山根信成近衛第二旅団長も戦病死したほどであった[91]。

凍傷 [編集]
当時の陸軍は、しっかりした冬季装備と厳寒地での正しい防寒方法を持っていなかった上に、兵士は草履をはくことが多く、物資の運搬を担った民間人の軍夫は軍靴を支給されなかった。結果として多くの将兵と軍夫が凍傷にかかり、相当な戦力低下を招いた。凍傷は、山東半島での威海衛攻略戦[92]、遼河平原の作戦[93]などで多発した。そのため戦後、そうした戦訓をもとに防寒具研究と冬季訓練が行われた。そして後年、対ロシア戦を想定した訓練中に起こったのが八甲田雪中行軍遭難事件である。

民間人の被害 [編集]
日本軍は、戦地で食糧を調達するときに対価を支払っており、現地の民間人に対して略奪等の行為が皆無との見解がある。とくに日本軍の規律の正しさに対しては、国際社会より高い評価を受けた[94]。これは当時日本が国際社会で認められ、列強の介入を防ぐために厳格に国際法を遵守し、捕虜の扱いに関しても模範を示す必要性があったためであり、結果として国際社会より高い評価を受け[95]、東洋の君子国[96]として称えられた。現地の人々との関係も良好で、例えば日本軍が朝鮮半島を北上していく際、現地の畑で農民が農作業をしているのに出会ったりすると、農民の作業を手伝った等の微笑ましいエピソードも残されているほどである(保坂前掲書)。

ただし兵士たちは、鉄道のない戦地で補給線が伸びきったために食糧を略奪し(徴発が略奪に変わり、抵抗する清国人を殴る行為を「大愉快」と表現した軍夫もいた。『東北新聞』1895年2月14日)、ときに寒さをしのぐ燃料を得るために民家を壊して生き延びた[97]。また、満州の戦闘では、市街(田荘台)を焼き払っており、戦時国際法を適用しなかった台湾平定では、集落ぐるみで女性子供も参加するようなゲリラ戦に対し、予防・懲罰的な殺戮(さつりく)と集落の焼夷とが普通の戦闘手段になっていた[98]。

影響 [編集]
日本の戦中戦後 [編集]
近代的な国民国家の形成 [編集]
憲法発布(1889年)、条約改正(1894年日英通商航海条約)、日清戦争(1894-95年)の3点セットは、脱亜入欧の第一歩となった[99]。とりわけ、近代的戦争の遂行とその勝利は、帝国主義時代の国際社会で大きな意味をもった[100]。ただし、欧米の大国で、日本の「公使館」が「大使館」に格上げされるのは、日露戦争講和条約が締結(1905年9月)された後のことである。他方、国内では大国、清との開戦が緊張をもって迎えられた[101]。なぜなら、歴史的に中国を崇め(あがめ)ても、見下すような感覚がなかったためである。明治天皇が清との戦争を逡巡(しゅんじゅん)したように、日清戦争の勃発にとまどう国民も少なくなかった。しかし、勝利の報が次々に届くと、国内は大いにわき[102]、戦勝祝賀会などが頻繁に行われ、「帝国万歳」という言葉がはやった。戦後の凱旋行事も盛んであり、しばらくすると各地に記念碑が建てられた。戦時中は、男児の遊びが戦争一色となり、少年雑誌に戦争情報があふれ、児童が清国人に小石を投げる事件も起こった[103]。ただし、陸奥宗光のように、コントロールの難しい好戦的愛国主義(排外主義)を危ぶむ為政者もいた[104]。

国民にむけて最も多くの戦争報道をしたのが新聞であった。新聞社は、コスト増が経営にのしかかったものの、従軍記者を送る[105]など戦争報道の強かった『大阪朝日新聞』と『中央新聞』が発行部数を伸ばし、逆に戦争報道の弱かった『郵便報知新聞』『毎日新聞』『やまと新聞』が没落した[106]。また、忠勇美談(西南戦争以前と異なり、徴兵された「無名」兵士の英雄化)など、読者を熱狂させた戦争報道は、新聞・雑誌で世界を認識する習慣を定着させるとともに、メディアの発達をうながした[107]。そのメディアは、一面的な情報を増幅して伝える等、人々の価値観を単一にしてしまう危険性をもった。たとえば、新聞と雑誌は、清が日本よりも文化的に遅れているとのメッセージを繰りかえし伝えた(開明的な近代国家として日本を礼賛)。

日清戦争は、近代日本がはじめて経験した大規模な対外戦争であり、その体験をとおして日本は近代的な国民国家に脱皮した[108]。たとえば、檜山幸夫が指摘した「国民」の形成である(戦争の統合作用[109])。戦争遂行の過程で国家は、人々に「国民」としての義務と貢献を要求し、その人々は、国家と軍隊を日常的に意識するとともに自ら一員であるとの認識を強めた。戦争の統合作用で重要な役割を果たしたのが大元帥としての明治天皇であり、天皇大本営の広島移転は、国民に天皇親征を強く印象づけた[110]。反面、清との交戦とその勝利は、日本人の中国観に大きな影響を与え、中国蔑視(べっし)の風潮が見られるようになった。戦場からの手紙に多様な中国観が書き記されていたにもかかわらず、戦後、多くの人々の記憶に残ったのは、一面的で差別的な中国観であった[111]。なお、国内が日清戦争に興奮していたとき、上田万年が漢語世界から脱却した国語の確立を唱道し、さらに領土拡大(台湾取得)などを踏まえ標準語の創出を提起した[112]。

財政・公共投資の膨張と経済発展 [編集]
日清戦争が一段落つくと、領土・賠償金等での勝敗落差の実感(かつて普仏戦争が軍拡の必要性を説くときに好例とされた)[113]や賠償金の使途や三国干渉(「臥薪嘗胆」のスローガン化)やシベリア鉄道建設(1891年起工)などを背景に、政府内で戦後経営にかかわる意見が出された。1895年(明治28年)4月、山縣有朋陸軍大臣が「軍備拡充意見書」を上奏し、8月15日に松方正義大蔵大臣が「財政意見書」(軍拡と殖産興業を主張)[114]を閣議に、11月に後任の渡辺国武蔵相が「財政意見書」を閣議に提出した。政府は、渡辺案を若干修正した「戦後財政計画案」(1896-1905年)を第九議会(1895年12月25日招集)に参考資料として提出した。

その後、一般会計の歳出決算額が開戦前の1893年明治26年)度8,458万円(軍事費27.0%、国債費23.1%)から1896年(明治29年)度1億6,859万円(軍事費43.4%、国債費18.1%)に倍増し、翌1897年度から日露戦争中の1904年(明治37年)度まで2億円台で推移した[115]。歳出増大にともなう歳入不足が3回の増税、葉たばこ専売制度、国債[116]でおぎなわれ(戦前、衆議院の反対多数で増税が困難な状況と一変)、「以後の日本の税制体系の基本的な原型を形成した」[117]とされる。さらに公共投資も、1893年度3,929万円から1896年度6,933万円に76.4%増加し、翌1897年度から1億円台で推移した[118]。そうした財政と公共投資の膨張にあらわれた積極的な政策姿勢(富国強兵の推進)は、負の側面があったものの、戦後の経済発展の主因となった[119]。なお1897年(明治30年)10月1日、英国通貨(ポンド)で受領する清の賠償金と還付報奨金をもとに貨幣法などが施行され、銀本位制から先進国と同じ金本位制に転換した(ただしロンドンに賠償金を保蔵し、日本銀行の在外正貨として兌換券を発行する「ポンド為替の本位制」=金為替本位制)[120]。

ちなみに後年、過酷な労働条件が問題となる綿糸紡績業・蚕糸業が発展する中、国民総生産について戦前の1891-93年3か年平均と戦後の1897-99年3か年平均とを比べれば、名目で86.8%、実質で26.2%増加したと推計される[121]。また戦中から戦後にかけ、都市下層の収入が実質20%ほど上昇し、主な食物が兵営や学校などの残飯から米食(安い外国米)に変わったとされる[122]。

賠償金の使途 [編集]
1896年(明治29年)3月4日、清の賠償金と遼東半島還付報奨金を管理運用するため、償金特別会計法が公布された[123]。1902年(明治35年)度末現在、同特別会計の収入総額が3億6,451万円となっていた。内訳は、賠償金3億1,107万円(85.3%)、還付報奨金4,491万円(12.3%)、運用利殖・差増853万円(2.4%)であった。また、同特別会計の支出総額が3億6,081万円で、差し引き370万円の残高があった。支出の内訳は、日清戦争の戦費(臨時軍事費特別会計に繰入)7,896万円21.9%、軍拡費2億2,606万円62.6%(陸軍5,680万円15.7%、海軍1億3,926万円38.6%、軍艦水雷艇補充基金3,000万円8.3%)、その他15.5%(製鉄所創立費58万円0.2%、運輸通信費321万円0.9%、台湾経営費補足1,200万円3.3%、帝室御料編入2,000万円5.5%、災害準備基金1,000万円2.8%、教育基金1,000万円2.8%)であった[124]。このように清の賠償金などは、戦費と軍拡費に3億502万円84.5%が使われた。

ちなみに、1896年度〜1905年度の軍拡費は、総額3億1,324万円となる(ただし第三次海軍拡張計画を含まない第一期と第二期の計画分)。使途の内訳は、陸軍32.4%(砲台建築費8.6%、営繕と初年度調弁費16.0%、砲兵工廠工場拡張費5.8%、その他1.9%)、海軍67.6%(造船費40.0%、造兵費21.2%、建築費6.4%)で、財源の内訳は、清の賠償金・還付報奨金62.6%、租税12.7%、公債金24.7%である。

清の戦後 [編集]
詳細は「清#半植民地化・滅亡」を参照

大国の清が小国の日本に敗れたことは、東アジアの国際秩序をゆるがす一大事件であった。西洋列強は、敗戦国の清に対し、「眠れる獅子」など大国的な認識をあらためた。その結果、清は、ベルリン会議前後から列強による勢力分割が進んだアフリカのように、勢力分割の対象にされ、良港など要衝のいくつかを租借地にされて失った。

対外的危機が高まる中、国内の一部では、日本の明治維新にならった変法自強運動が唱えられた。1898年(明治31年)、その変法派が光緒帝と結び、急激な変革(戊戌の変法)が行われつつあったものの、失敗した(戊戌の政変)。1900年(明治33年)の義和団の乱では、清が宣戦布告をした各国の連合軍に首都北京を占領される非常事態となり、国権の一部否定をふくむ北京議定書を締結するなど大きな代償を払った。さらに、南下政策をとるロシアの満洲占領をまねいた。以上のように清は、日清戦争での敗戦を契機として、半植民地化が急速に進み、最終的に滅亡(辛亥革命)することとなる。

朝鮮の戦中戦後 [編集]
1894年(明治27年)7月下旬、日本主導の甲午政変により、金弘集内閣が誕生すると、日清戦争中、魚允中や金允植など新改革派の官僚とともに改革が行われた(第一次甲午改革)[125]。高宗・閔妃派・大院君派官僚らの抵抗が強いため、10月に着任した井上馨公使の要請により、亡命中の朴泳孝と徐光範を加えた第二次金内閣が発足し、改革が推進された(第二次甲午改革)。翌年4月17日、日清講和条約の調印により、朝鮮は清との宗藩関係が解消された(第一条)。しかし、直後の三国干渉で日本の威信が失墜し、6月に第二次金内閣が崩壊した[126]。そうした情勢のもと、10月8日に乙未事変閔妃暗殺事件)が起こった。大院君が執政に擁立されて親露派が一掃される中、成立した第四次金弘集内閣は、太陽暦採用や断髪令など国内改革を再び進めた。しかし改革には、政府内だけでなく、地域に根をはる両班儒学者たちも反発した。翌1896年1月、「衛正斥邪」をかかげる伝統的な守旧派[127]が政権打倒をめざして挙兵した(初期義兵運動)。農民層を巻き込んだ内乱を鎮圧するため、王宮の警備が手薄になったとき、政権から追われた親露派がクーデターを決行した。親露派は、ロシア水兵の助けを得ながら、后を暗殺された高宗とその子供をロシア公使館に移し、2月11日に新政府を樹立した(露館播遷)。同日、総理大臣の金弘集は、光化門外で群衆に打ち殺された(甲申政変での急進的開化派(独立党)の壊滅につづき、穏健的開化派も政治的に抹殺された)。

こうして日清開戦からつづく、武力を背景とした日本の単独進出は、日清講和条約の調印から1年もたたないうちに頓挫した。つまり、日本主導による朝鮮の内政改革と「独立」(実質的な保護国化)の挫折である。その結果、義和団の乱後にロシアが満洲を占領するまでの間、朝鮮をめぐる国際情勢が小康を保つこととなる。清の敗戦後、朝鮮半島で日本が政治的に後退し、満洲にロシアが軍事的進出をしていない状況の下[128]、1897年(明治30年)10月12日、高宗は、皇帝即位式を挙行し、国号を「朝鮮」から「大韓」と改め、大韓帝国の成立を宣布した。なお、その前後、清との宗藩関係の象徴であった「迎恩門」および「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑が倒され、前者の跡地にフランスのエトワール凱旋門を模した「独立門」が建てられた。

その他 [編集]
海外では日清戦争の事を第一次中日戦争と呼んでいるが、実際には日本軍と中国軍が戦ったのは歴史的に見れば3度目である。1度目白村江の戦い百済救援戦争)で、2度目は文禄・慶長の役である(元寇は通常モンゴル帝国扱い)。
偶然にも日清戦争日露戦争第一次世界大戦は、十年おきに勃発(1894年、1904年、1914年)している。
欧米の軍事的脅威を感じた日清両国は欧米からの武器輸入を進めていた。だが、各軍(日本の場合は旧藩)がそれぞれの基準によってバラバラに輸入を行ったために、さまざまな国籍・形式のものが混在してしまい、弾薬の補給やメンテナンス面でも支障をきたしていた。1880年明治13年)、日本陸軍の村田経芳が日本で最初の国産小銃の開発に成功する。陸軍はこれを村田銃と命名して全軍の小銃の切り替えを進めた。その後、同銃は改良を進めながら全軍に支給されていった。日清戦争当時、村田銃の最新型が全軍に行き渡っていたわけではなかったが、弾薬や主要部品に関しては新旧の村田銃の間での互換性が成り立っていたため、弾薬などの大量生産が行われて効率的な補給が可能となった。
戦争終結後の1896年8月1日に、戦中に病没した能久親王と熾仁親王の肖像を描く2銭と5銭切手を各2種ずつ4種の切手を発行した。この切手は日本で発行された最初の肖像切手である。切手自体には記念切手などの銘は表記されていないが、当時の新聞[129]では「明治廿七八戦役戦捷記念」と紹介されたほか、現在のさくら日本切手カタログ(日本郵趣協会編)などでは「日清戦争勝利記念」切手と紹介されている。
脚注 [編集]
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^ 参謀本部編「明治廿七八年戦史」は、戦争期間を宣戦布告(1894年8月1日)から日清講和条約調印(1895年4月17日)までとせず、豊島沖海戦(1894年7月25日)から台湾平定(1895年11月30日)までとした。原田(2007)。なお、日本軍の朝鮮王宮占領(1894年7月23日)を開戦日とする見解もある。同掲書。中塚明『歴史の偽造をただす』高文研。ISBN 4874981992。そもそも国際社会では、ハーグ陸戦条約まで、宣戦布告前の戦闘について問題意識が低く、日清戦争当時に問題視されていなかった。
^ 参謀本部「明治二十七八年日清戦史」  http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351&VOL_NUM=00007&KOMA=90&ITYPE=0
^ 戸部(1998)、144頁。
^ 日本側、とりわけ、戦前の日本人にとってはロシアなどの西洋諸国から自国領を防衛のために日本列島へ進出する際に足がかりとなる朝鮮半島を何とかせねばならないという意識が強かった。
^ 陸奥宗光 中塚明校注『蹇蹇録』日清戦争外交秘録 新訂岩波文庫 62P 岩波書店 ISBN 4003311418
^ アンドルー・ゴードン『日本の200年』上248P みすず書房 ISBN 4-622-07246-7 日清戦争の目的が単に朝鮮の独立の確保にあるのではなく日本の主権、国益の拡張にある。 「このように、日清戦争は、朝鮮にたいする支配権をめぐる日中間の戦いだった。(中略)下関で調印された日清講和条約(下関条約)で日本は、自国の「利益線」を朝鮮半島よりもさらに遠くへ拡張したいという強い願望を明確に打ち出した。」 遠山茂樹『日本近代史 1 』199P,203P 岩波書店 ISBN 978-4-00-021887-0 隅谷三喜男大日本帝国の試練』29~30P、35~36P(中央文庫『日本の歴史22』) ISBN 4-12-200131-5 これらは遼東半島領有は陸軍の、台湾領有は海軍の戦争中からの主張であったことを指摘している。 開戦