【さだまさし】2万5500字

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さだまさし】2万5500字

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さだまさし
基本情報
出生名 佐田 雅志
別名 まっさん
出生 1952年4月10日(57歳)
血液型 A
学歴 國學院大學法学部中退
出身地 日本・長崎県長崎市
ジャンル フォークソング
ニューミュージック
職業 シンガーソングライター
ラジオパーソナリティ
小説家
映画監督
担当楽器 ヴァイオリン
フォークギター
活動期間 1973年 -
レーベル フリーフライト
事務所 さだ企画
共同作業者 吉田政美 (1972-1976)
渡辺俊幸
影響 ポール・サイモン
加山雄三
ほか
公式サイト さだまさしオフィシャルサイト
表・話・編・歴
文学

ポータル
各国の文学
記事総覧
出版社・文芸雑誌
文学賞
作家
詩人・小説家
その他作家
さだ まさし(本名:佐田雅志、1952年4月10日 - )は長崎県長崎市出身のシンガーソングライター、タレント、小説家。ファンとスタッフの間では「まっさん」の愛称で親しまれている。身長は160.5cm。血液型はA型。

目次 [非表示]
1 人物概要
2 経歴
2.1 生い立ち
2.2 グレープでデビュー
2.3 ソロ歌手への転向
3 シンガーソングライターとして
3.1 歌詞の傾向
3.2 メロディーの傾向
3.3 声の変化
3.4 活発なコンサート活動
3.5 影響を受けたアーティスト
4 「噺家」として
5 小説家として
6 人物
6.1 詩へのこだわり
6.2 歌に託したメッセージ
6.3 スポーツの応援
6.4 飲食店の経営
6.5 フォントマニア
7 人気・評価
8 交友関係
8.1 ミュージシャン
8.2 アレンジャー・バックメンバーなど
8.3 その他
9 さだまさし研究会(さだ研
10 ディスコグラフィ
11 主な著作
12 主な映像作品など
13 主なラジオ番組出演
14 主なテレビ出演
14.1 CM
15 受賞
16 役職
17 脚注
18 関連項目
19 外部リンク

人物概要 [編集]
二人組のフォークデュオ、グレープでデビュー。「精霊流し」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。 ソロシンガーになってからも「雨やどり」、「関白宣言」、「北の国から〜遥かなる大地より〜」など数々のヒット曲・有名曲を生み出してきた。その叙情的で文学的な歌詩の世界は独自のものとして定評がある。

2009年現在、日本で最も多くのソロ・コンサートを行った歌手であり、その回数は實に3500回を越えている。

またトークの軽妙さはテレビ、ラジオでも、またコンサートのMCにおいてもさだの大きな魅力となっている。近年では小説家としても活動している。

國學院高等学校卒業、國學院大學法学部中退。趣味はゴルフ。

弟はさだ企画社長で、元サッカー選手でもある佐田繁理。妹は、歌手の佐田玲子

息子は、2007年現在桐朋学園大学在学中のヴァイオリニスト佐田大陸。

経歴 [編集]
生い立ち [編集]
長崎市で佐田家の長男として生まれる。佐田家は元々島根県那賀郡三隅町(現浜田市)の大地主の家系である。その次男坊だった祖父・繁治は中国大陸で諜報活動に従事したのち商工省の大臣秘書官を務めた経歴の持ち主であり、その繁治と結婚した祖母エンもまたソ連(現ロシア)のウラジオストックで料亭を営んでいたという当時の日本人女性としては異色の存在である[1]。父・雅人は第二次世界大戦終戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、そのまま長崎に住み着いた。その後、戦友の妹・喜代子と結婚し、雅志・繁理・玲子の三人の子をもうけている。雅志の幼少時は、父・雅人は材木商を営み、自宅は庭に小山があるような豪邸だったという。

3歳よりヴァイオリンを習い始め、毎日学生音楽コンクール西部地区大会で入賞するなどの上達ぶりを見せる。一方、父の事業が失敗し、一家は豪邸を失い小さな長屋住まいとなる。

小学校卒業後、ヴァイオリン修行のため単身上京。以後、葛飾区や千葉県市川市で一人暮らしを続けることになる。中学生時代に加山雄三サイモン&ガーファンクルに影響され、ギターを奏でながら歌を作るようになる。その一方東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校(途中で東京都立駒場高等学校芸術科(現東京都立芸術高等学校)に志望校を変更)の受験に失敗し、失意のなか國學院高等学校に入学。以来ヴァイオリンへの熱意を失う。ただし創造性とでも言うべきユニークな才能は高等学校在学中にもいかんなく発揮され、数多くの武勇伝や逸話を残している。

グレープでデビュー [編集]
國學院大學中退(法学部へ入学も、殆ど大学には行かなかった)後、数々のアルバイトをしながらの生活を送るも、やがて肝炎を患ったことをきっかけに長崎に帰郷。1972年、高校時代からの友人吉田政美とバンド、「グレープ」を結成し音楽活動を開始。やがて音楽プロデューサー川又明博によってスカウトされ、1973年10月25日には「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)より全国デビューした。

1974年、「精霊流し」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであった為か、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、名古屋にある東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』の中で、アナウンサーの蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けた。これが助力となって放送エリアの名古屋地区のみならず、全国的なヒットとなり、この年の第16回日本レコード大賞作詩賞受賞することとなった。

1975年11月にリリースした「無縁坂」もヒット。しかし、これと「縁切寺」のヒット、「雰囲気を変えるため」に出された、「朝刊」が思うようにヒットしなかったことが重なり、「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」、つまり、グレープ(さだまさし)の音楽=暗い、というイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽と相違が生じたため、1976年春、解散した。

ソロ歌手への転向 [編集]
1976年のグレープ解散後、一時業界からはなれる。体調を崩していたさだは、療養と共に就職を考えるも活動が上手くいかず、同年11月、「線香花火」でソロ活動を始める。

1977年に、雨やどりがきっかけで恋に落ち、結婚まで繋がる姿をコミカルに歌ったシングル「雨やどり」がオリコンシングルチャート1位になる大ヒットとなる。これが、さだにとってグレープ時代から通じて初めての首位獲得である(一番売れた「精霊流し」でも最高2位であった)。後に異ヴァージョン(「もうひとつの雨やどり」、「雨どりや」、ライブにて、谷村新司との自虐コラボレーション「雨昴」)が作られるほどの大ヒットとなった。

1978年10月、個人レーベル「フリーフライト」設立。

1979年1月、同レーベルから初のシングル「天までとどけ」をリリース。

同年7月にリリースした「関白宣言」が150万枚を超える大ヒットとなる。他にも「案山子」「親父の一番長い日」「道化師のソネット」「防人の詩」「驛舎」など、数々のヒット曲を放つ。

1980年、映画『翔べイカロスの翼』(主題歌は「道化師のソネット」。共演は原田美枝子)にサーカス団のピエロの青年役として主演、音楽も担当。一方、翌1981年にかけ、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画『長江』(主題歌は「生生流転」)を制作(1981年11月公開)。映画自体は120館上映というヒットであったものの、それ以上に制作費を掛け過ぎてしまったため、約30億円もの負債が残った[2]。また、この頃の大ヒットの反動から「暗い(ネクラ)」「右翼」「左翼」「軟弱」「女性蔑視」など様々なバッシングを受けることになる。

1981年、フジテレビ系ドラマ『北の国から』の音楽を担当。主題歌は歌詞のないものだが大変有名な曲となる。

1985年、ソロ・コンサート通算1000回(東京厚生年金会館)を達成。

1987年8月、故郷長崎市で「長崎から広島に向って歌う」無料平和祈念コンサート『夏・長崎から』を開催。以後2006年までの20年間毎年8月6日に長崎でコンサートを行い、地元市民だけはなく全国からファンが集まる長崎市の夏の一大イベントとなった。

1993年、ソロ・コンサート通算2000回(大阪フェスティバルホール)を達成。

1995年、長崎市に平和祈念のミュージアムを作る「ナガサキピーススフィア貝の火運動」を開始(2003年4月にナガサキピースミュージアム開館)。

1996年、長崎県県民栄誉賞を受賞。

2000年4月1日、福岡ダイエーホークス開幕戦にて君が代を独唱。ロンドン・ロイヤルアルバートホールにて日本人男性歌手では初となるコンサートを行う。

2001年9月、小説『精霊流し』を発表。後にNHKでテレビドラマ化され、さらに映画化もされた。さらに、小説にのっとって選ばれた音楽をまとめたアルバム『小説 精霊流しの世界』を発売。

児童書『おばあちゃんのおにぎり』発刊。2002年にひろすけ童話賞を受賞する。

2002年3月21日、ソロ・コンサート通算3000回(東京国際フォーラム)という前人未到の偉業を達成。9-12月、デビュー30周年記念コンサート・ツアー『MOON-BOW at THE 30th』を東京・名古屋・大阪にて各8夜構成で開催。グレープ・デビューからの時系列に沿って8日間掛けて足跡を辿っていくという趣向で曲目、バンド編成が日替わりのスペシャルコンサート。12月、小説集『解夏(げげ)』発表。2004年に映画化、フジテレビ月9枠で『愛し君へ』としてドラマ化。

2004年12月、長編小説『眉山』発表。

2005年8月17日、FIFAワールドカップ予選日本対イラン」の試合にて「君が代」を独唱。9月6・7日、「ソロ通算3333回記念コンサート」を日本武道館にて2日間開催。同7日に32作目のオリジナルアルバム『とこしへ』発売。10月、サッポロビール冬物語」で初のパッケージデザイン。

2006年1月1日未明にNHK総合テレビでさだ司会の生放送特番『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』が放送される。好評を博したため、5月・8月に続編が放送、翌2007年1月1日未明にも『2007年新春生放送 年の初めはさだまさし』が放送され、3月にも続編が放送されている。

2006年4月、シングル「がんばらんば(長崎弁ヴァージョン)」をリリース(他のヴァージョンが収録されているわけではない)。

2006年8月6日、最後の『夏・長崎から』である「2006 夏 長崎から さだまさし ファイナル」を行う。その際に「来年は8月9日に広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるよ」と宣言する。

2006年、『夏・長崎から』の活動に対し、第48回日本レコード大賞・特別賞を受賞する。

2007年8月9日 広島市民球場開設50周年記念 「2007 夏 広島から さだまさし」を開催。広島市民球場でコンサートを行うのは2004年の奥田民生に次いで2人目。

2008年秋、美空ひばりの曲をカバーしたアルバム『情継 こころをつぐ』をリリース。トップ10入りを果たす。出続けていたNHK紅白歌合戦に落選するが、『年の初めはさだまさし』は行われた。

2009年12月31日、21年ぶりの年またぎカウントダウンライブを両国国技館にて行う。コンサート終了直後に『年の初めはさだまさし』の生放送を現地にて行った。

シンガーソングライターとして [編集]
歌詞の傾向 [編集]
シリアスな曲が多い一方で、「恋愛症候群」「雨やどり」「関白失脚」(「関白宣言」のアンサーソング)のように半ばコミックソング的な要素のある曲も多く、両者が矛盾せずに、むしろ互いが互いを引き立てる「光と影」のような、いずれが欠けてもさだの世界ではなくなる存在感で定位している。これらの曲はライブで初披露され、ライブ録音された客の笑い声が入った音源となっている。この手法は、さだのお気に入りであるようである。

また、仏教的なテーマ(「修二会」など)や日本の古典作品をモチーフとした作品(「飛梅」「まほろば」など)も多い。更に、世間のイメージとは裏腹にロック調の楽曲やラップに挑戦した「がんばらんば」など、幅広い作風の楽曲を生んでいる。

実に多彩なテーマで曲を作り続けているさだであるが、ある程度の傾向、類似テーマ・形式・スタンス・題材のものが存在する。それが決してマンネリズムではなく、時代と共に少しずつ変化しているなど、新鮮な響きを以って受け止めることができるのが、さだの特筆すべき独自性でもある。この辺りは、さだが落語に造詣が深いことと無関係ではないと言われている。

「親父の一番長い日」、「風に立つライオン」などポール・サイモンから影響を受けた歌詩の言葉数が多い曲がある一方で、朗々と歌い上げるタイプの曲もある。

さだ自身が故郷長崎を幼少時代に離れたことから、望郷の歌、ふるさとと都会の距離感を歌う曲は数多い。また、楽曲の主人公(語り部、一人称)が男女を問わず、また幅広い年齢層にわたることが、実際に多くの年齢層のファンに共感を得られることが人気の秘密であり、そのことがさだの作詩家としての才能を良く表している。

例えば「婚礼」というテーマにおいても、「花嫁から母親へ(秋桜)」、「母親から花嫁へ(秋の虹)」、「花婿から花嫁へ(関白宣言)」、「兄から父親・花嫁へ(親父の一番長い日)」と立場を変え、さまざまな視点から楽曲に取り上げていることがわかる。

メロディーの傾向 [編集]
西洋のポピュラー音楽やクラシック音楽の技法を駆使した作品が多い。彼は前述のように元々ヤッシャ・ハイフェッツに憧れたヴァイオリン少年であり、単旋律楽器であるヴァイオリンに親しんだことは彼の音楽性に大きな影響を残すこととなった[3]。自分のコンサートでヴァイオリンを弾くことも多い。また、時にクラシックの名曲からの引用が見られる。

声の変化 [編集]
この節の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2008年12月に貼り付けられました。

グレープとしてデビューした1973年(21歳)〜78年初頭(25〜6歳)ぐらいにかけて。
このころの声はまさに美声。特に高音はとても伸びがあり、「追伸」のような極端にキーが高い曲も透き通ったきれいな声で歌い上げた。(このころの楽曲に、グレープ時代の各曲、「線香花火」(ソロデビュー曲)、「雨やどり」「案山子」「檸檬(アルバムver.)」など)。
1978年後半(26歳)〜1979年(27歳)ぐらいまで
歌い方を大きく変えたわけではないが、年齢を重ねたことで声(質)に変化が出始めると同時に安定感も出てくる。この時期から小さな変化が始まる。(このころの楽曲に、「天までとどけ」「関白宣言」「親父の一番長い日」「道化師のソネット」「防人の詩」「主人公」「まほろば」「療養所」など)
1980年(28歳)
明らかな変化が出始める。高音を出すときに鼻濁音が混ざり、半分裏返ったような声を出すようになる。(このころの楽曲に、「道化師のソネット」「防人の詩」など)
1981年(29歳)
それまではきれいに伸ばしていた声をあまり伸ばさなくなり、脱力したような歌い方をし始める。鼻濁音も強くなる。(このころの楽曲に、「驛舎」など。)
1982年(30歳)-1988年(36歳)ぐらいまで。
1982年の年始にさだはのどに出来たポリープが原因でのどを痛めた(「恐怖の声枯れ事件」と呼ばれる)。これ以降さだは鼻濁音や、音をあまり伸ばさなくなったりというようなすでに見られ始めていた徴候を本格的に取り入れるようになり、さらには、言葉言葉の音をわずかにではあるがわざとはずしたり、かなり力を込めて歌ったりと歌い方を大きく変えるようになった。このころはまだデビュー当時の面影がある。(このころの楽曲に、「長崎小夜曲」「風に立つライオン」「極光(オーロラ)」「北の国から〜遥かなる大地より〜」など。)
1989年(37歳)-1992年(40歳)ぐらいまで。
1989年の夏にさだは再びのどの調子を悪くし、いわゆる「氷河期」を迎えた。高音が苦しくなり、いわゆる「ガラガラ声」が目立つようになったが、この時期においてもそのガラガラを逆に「渋さ」という魅力としてアピールすることで乗り越えていった。このころもまだデビュー当時の面影がかろうじてある(このころの楽曲に、「奇跡〜大きな愛のように〜」「糸電話−グレープ再結成時発売シングル、レーズン名義−」など)。
1993年(41歳)-2000年(48歳)ぐらいまで。
のどの調子も戻った、デビュー20周年を迎えた1993年もしくは翌94年から、さだはさらに鼻濁音に磨きをかける。ときどき高音が鼻にかかった弱い音になるのが特徴。これにより声が再びよく伸びるようになり、渋さと声の幅、伸びが両立された。だが、これにより、デビュー時とは違う人のような個性的な歌声になる。しかし、長年のどを酷使したせいもあり、しだいに高音が細く細くなっていく。前記のとおり、デビュー当時の面影はほぼない。(このころの楽曲に、「関白失脚」「広島の空」「銀杏散りやまず」など。)
2001年(49歳)-
声が伸びなくなって、さだは歌手として声の面でおそらく最大の危機を迎える。そこで編み出したのが「オペラ調高音」。とにかく太く太く歌う。大きな声を出すと高い音が出やすく、またのどそのものは堅牢になっているので、とにかくオペラ歌手のように声がよく伸びるという、ひたすら穏やかな歌声を勝ち取った。2008年発売のカヴァーアルバム「情継 こころをつぐ」では、「オペラ調高音」を抑え、ひたすら優しく歌った。50歳を越えてから再び追い風にのったようで、さらなる活躍が期待される。コンサート回数も2007年には3500回(オリコン調べによる、3000回を超えている邦人のプロ歌手はさだまさしのみ)を超えた。デビュー当時の面影はまったくなくなってしまった。(このころの楽曲として、「君を忘れない〜タイムカプセル〜」「小さな手」「たいせつなひと」「かささぎ」など、そして今後のさだ楽曲。)

※一部特記すべき箇所では表記したが、これらの変化にさらに年齢によるものが加わるわけである。

活発なコンサート活動 [編集]
さだのコンサート回数は2007年には3500回(オリコン調べによる、3000回を超えている邦人のプロ歌手はさだまさしのみ)を超え、日本記録を伸ばし続けている。さだがこれほど多くのコンサートを行うようになったのは映画『長江』で多額の借金を抱えたことがひとつのきっかけだった。さだはこれ以後、返済のために年間100回以上、多い年には162回(1982年実績)ものコンサートを行なうようになった。

前述のように仏教的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌も多く、太宰府天満宮東大寺などの社寺仏閣の宮司・管長らとも親交がある。このためか、東大寺大仏殿・薬師寺平安神宮など、寺社でのコンサートも数多く行なっている。たまたま地方へコンサートに行った際、その日に地元高校の野球部が県大会で優勝して甲子園出場を果たし、コンサート当日にはその高校の野球部の帽子をかぶり校歌を歌うというサプライズを行ったこともある。

1980年代前半、中国へのコンサートの際には使用する音楽機材を運搬するために日本航空DC-8貨物機をチャーターしている。現在では海外の大物アーティストが来日するときは当然のことになっているが、日本人アーティストで貨物機をチャーターしたのは2007年現在、さだのみである。

影響を受けたアーティスト [編集]
中学1年の時にサイモン&ガーファンクルを聴いてギターの魅力に開眼した。全体の音をリードしていく楽器であり、単旋律楽器であるヴァイオリンとは対極にあるところに感激したと語っている[4]。ポール・サイモンが1970年代末に「たかが音楽、いつだってやめられる」と言った時にはさだはショックを受け、ニューヨークまで行ってサイモンにその真意を問い質したことがある[5]。

その次にさだが大きな影響を受けたのが加山雄三だった。「君といつまでも」を聞いて衝撃を受け、すぐさま下宿先のお兄さんから借りたギターを使って全く同じコード進行の曲を作ったのが彼の最初の作品だという。その時初めてギターを弾いたのだが、幼少時代からずっとヴァイオリンを弾いていたため比較的簡単に弾けたという[4]。他にブレッド(デヴィッド・ゲイツ)のバラードタイプのナンバーにも非常に好感を寄せている。

同世代の日本のシンガーソングライターにはビートルズボブ・ディランの影響を受けた者が多い中で、 加山雄三サイモン&ガーファンクル等の影響でポピュラー音楽に目覚めたことは他のシンガーソングライターと一線を画す、彼の大きな特徴である[6]。

噺家」として [編集]
さだまさしは歌から受ける印象とは違い明るく喋り好きな性格であり、高校・大学と落語研究会に所属していた[7]ためもありその話術には定評がある。本人は「人生は明るく、歌は暗く」がモットーと話す。

コンサートでは「トーク」や「噺(はなし)」と呼ばれるMC(曲との間の喋り)を「3時間のなかの1時間」喋り[8]、時には歌よりも長い時間繰り広げることもあり[9]、その内容はほとんど落語か漫談のようである。本人は「とある落語家が弟子に『さだまさしのコンサートに勉強しにいってこい』と言った」と話す。

観客もトークを楽しみにしており、『のちのおもひに』収録の20周年記念ライブ第1夜の挨拶で「今日はあまり喋りません」と言ったら客席から「えーっ!」という声が挙がったこともある。まるで落語の演目のように定番となっているネタも多く、1994年にファンクラブ会員向にオールリクエストコンサートを行った際には、歌は勿論どのネタを喋るかまでリクエストで決めるという、普通の歌手では有り得ないようなことまで行われた。

このため、ほとんどのライブ・アルバムでは「トーク」までノーカットで収録されており、さらには「トーク」単体で音源や本としてリリースされているほどである。

1994年から1997年にかけて『ステージ・トーク・ライブ 噺歌集』としてトーク(+インストゥルメンタル)のCD集が発売されたほか、2006年には『さだまさし トークベスト』というトークだけのベストアルバムまでリリースされ、「本業である歌のCDより売れている」(本人談)。コンサートでトークをするようになったのは、自身を嫌っているかのように見えた最前列の観客が話をしたときに笑ってくれ、嫌われていなかったとほっとしたことがきっかけだという[10]。自身のトークはコンサートにおける必需品ではないが、アイスクリーム(歌)をおいしく食べるためのウエハース(トーク)という意味で「アイスクリーム屋のウエハース」だと喩えている[10]。

また、その喋りの才能は、ラジオの深夜放送(文化放送さだまさしのセイ!ヤング』1981年 - 1994年)のパーソナリティとしても遺憾なく発揮された。2006年の元日には『セイ!ヤング』時代の雰囲気をテレビで再現した『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』なる生番組をNHK総合テレビで担当した。放送時間は2時間強だったが番組内で歌われた歌はたった3曲で殆どの時間をトークですすめ、裏番組の番組名を読み上げたり、紅白歌合戦を暗に批判するなどして、ファン以外にも多くの支持を受けた。

また同年5月6日深夜には同じコンセプトで『横浜から突然生放送! 大型連休もさだまさし』を同じくNHK総合テレビで放送したが、こちらは1時間の番組内で歌ったのは実質的に唱歌「故郷」1曲のみであった。どちらの番組もやはり自虐ネタとして「低予算」を前面に押し出していた。以降も多くの生放送番組が放送されている。これらの番組に関しては今夜も生でさだまさしを参照。

内容はこの歌もあの歌も売れなかったといった自虐ネタが多い。自らが企画した映画『長江』がヒットしたものの予算オーバーで多額の借金を作りコンサートで返済するようになって以降髪の毛が薄くなっていることも恰好の題材であり、「谷村新司さだまさし松山千春は『フォーク界御三毛』」などど話す。NHKの『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』へゲスト出演した、スキマスイッチ常田真太郎(アフロヘアーがトレードマーク)が「そろそろ(アフロを)やめたい」と漏らした際にも「やれる時にやっておけ。いつまでもあると思うな親と髪!」と話した。

2005年6月9日にフジテレビで放送された『北野タレント名鑑』にて、「絶対に出ないだろう」という司会のビートたけしの声に反して、ノーギャラで嬉々として出演を了承するが、オヤジギャグを連発した上、最後まで顔が映らないまま番組が終了してしまう。だが、この事で、逆にさだのトークの面白さを再認識させる事となった。宇多田ヒカルはこの番組を見てさだに興味を持ち、それが元でさだは喋りだけで音楽番組『HEY!HEY!HEY!』(フジテレビ系)へ出演している。

小説家として [編集]
2001年、テレビ朝日で放送されていた『ほんパラ!関口堂書店』の番組企画をきっかけに、幻冬舎社長見城徹の指導のもと、処女作である自伝的小説『精霊流し』を刊行し、ベストセラーに。2002年には短編小説集『解夏(げげ)』を刊行した。

精霊流し』はNHK・夜の連続ドラマとして2002年にドラマ化(『精霊流しあなたを忘れない〜』)、2003年に映画化もなされた。『解夏』は映画化(2004年)され、さらにフジテレビ系ドラマ『愛し君へ』(2004年)の原作となった。

2004年には、第3作『眉山(びざん)』を発表。NHK-FMでラジオドラマ化され、漫画雑誌のシルキーでコミック化された。2007年には東宝製作で、犬童一心監督により映画化された。

なお、さだは『精霊流し』以前にもアルバム『ADVANTAGE』と『自分症候群』に曲のタイトルを題材にした短編小説を歌詩カードに掲載している(後に、新潮文庫から『自分症候群』として出版)。

また、童話作家としても活動しており、自身の体験を基にした数冊の絵本を出している。コンサートのMCでもお馴染みの噺である、2作目の『おばあちゃんのおにぎり』は歌手として初めてひろすけ童話賞を受賞した。

さらにエッセイも数多く、毎日新聞や新潮社の雑誌『旅』(完了)、ダイヤモンド社の雑誌『TV Station』などへの連載も行っている。

ファンクラブの会報にも毎回さだの短編が掲載されている。読み切り形式でジャンルは不定

人物 [編集]
詩へのこだわり [編集]
アルバムのクレジットなどでは、「作詞」ではなく「作詩」と表記されている。こうしたところにもさだの文学的志向をうかがうことができる。

さだの詩へのこだわりは、保有している長崎県長崎市(旧琴海町)の大村湾内にある「寺島」と呼ばれていた小さな島が、1995年4月1日にさだの意向により詩島(うたじま)と改名されたことにも表れている。島には「飛梅」という曲の舞台ともなった太宰府天満宮から勧請した「詩島天満宮」がある。

歌に託したメッセージ [編集]
さだは長崎県出身で親族に原爆被災者がいることもあって、戦争の悲惨さ、凄惨さを痛感している故の平和を求める気持ちが強く、平和祈念コンサートなども行なっている。これは戦争に対するイデオロギー的賛否とは一線を画したもので、故に反戦主義者ではあるがイデオロギー色の強い反戦運動反戦思想にも懐疑的態度を取っている。また、祖父母が中国大陸に渡って活躍していたことから、中国大陸への強い郷愁(愛情)のようなものを間接的に受け継いでおり、周辺諸国との友好を願う気持ちも強い(息子を“大陸”と名づけている)。

その一方で、日本の将来を憂い、失われていく日本の伝統的な文化・道徳を大事にしようとする傾向がある。このためプロ野球の開幕戦やサッカーの国際試合で「君が代」を歌ったり、あるいは靖国神社への参拝を行う(自著に記載)など、一般的な日本の右翼・左翼の観念には当てはまらない言動を行うので、双方からの批判を受けることも多い[11]。しかしそれに動じることなく、紅白歌合戦でも敢えて平和を問う曲目を取り上げ、人々にメッセージを放ち続けている。

彼の考え方は、社会の仕組みや構造でなく、常に心情から理解する、という特徴があり、例えば過疎についても[12]都会へ行ったものたちの冷たい仕打ちと見て、僻地で暮らしづらい社会の仕組みを見ない姿勢がその典型である。

裁判員制度には批判的である[13]。

スポーツの応援 [編集]
プロ野球は、長嶋茂雄監督が1980年に解任されるまでは読売ジャイアンツファンだったが、その後は東京ヤクルトスワローズファンとなった。ヤクルトの初代オーナー・松園尚巳が長崎県出身だったのが理由である。ヤクルト優勝時に同ナインが『さだまさしのセイ!ヤング』に電話出演したこともある。元選手兼任監督古田敦也とは毎年一緒に酒を飲む仲だという[1]。また、神宮外苑を舞台にした曲『絵画館』の歌詞には「スワローズのユニフォーム」というフレーズがある。その他、福岡ソフトバンクホークスについては九州出身者として毎日新聞連載のコラムで「わがホークス」という表現を何度かしていたり、また北海道日本ハムファイターズファンが試合中に「北の国から」を大合唱しているのを聴いて、思わず心が揺れたと発言している。

浦和レッドダイヤモンズファンでもあり、1995年には「浦和花色木綿」というサポーターズクラブを結成し、浦和レッズ発行のハンドブックには2008年版までオフィシャルサポーターズクラブ代表者として掲載されている。かつてのバックメンバー坂元昭二も浦和サポーターである。

実は、出身地の長崎市三菱重工などの企業城下町で有った為に浦和の前身である三菱重工業サッカー部以来のファンであったことを、自身のラジオ番組『有限会社 さだまさし大世界社』で公言している。また、まさしの弟の佐田繁理がサッカー選手として香港で1年間活動していたこともあり、以前からサッカーに興味を持っていたのである。

また競艇のSG・G1・一般競走の優勝戦のファンファーレはさだが作曲したものである[14]。

飲食店の経営 [編集]
1980年代の前半に、東京メトロ赤坂見附駅付近(地下)に「さすらひの自由飛行館」というカフェを経営していた。

店先(地上)にはケンタッキーフライドチキンカーネル・サンダースのパロディで、さだまさし自身の立像が据えられていた。
地下に降りて行くとドアがあるが、そこはダミーのドアで、まごついていると横のところが開くようになっていた。
壁には音響装置があり、ヘッドフォンでさだまさしの曲を聴くことができた。
トイレの壁には「便訓」という張り紙が貼ってあった。
メニューには「あみんセット」(パンプキンパイ・シナモンティー・バラの形の角砂糖)や、アルバム『うつろひ』収録の「分岐点」にちなんだ「分岐点セット」(ミートパイとソーダ水)があった。
この他、渋谷に「モンペトクワ」というレストランを友人と共同所有していた(2004年9月末で閉店。西村知美の夫である西尾拓美が店長をしていた)。また、現在でも五反田にバー「MONPETQUOI'S BAR」と「モンペトクワ ごはん屋」が、故郷長崎市に「自由飛行館」がある。

フォントマニア [編集]
2009年12月4日放送の「スタジオパークからこんにちは」においてパソコンに様々な有料フォントを買って入れていると発言した。更に近年パソコンで歌詞を書く事も多く、歌詞のフォントをその歌の雰囲気に合うフォントで書いているとも語った。実際にさだが使用しているアップルのMacBook(型式は分からない。)がスタジオに持ち込まれていて、先述した歌詞のフォントをその歌の雰囲気に合うフォントで書いているを実演した。多数のフォントを買って入れていると語った通り、ワープロソフトのフォント一覧に多数のフォント名が表示されていた。

また、フォントが(読む人に対して)冷たすぎると感じている為、取扱説明書が嫌いであるとも語っている。

人気・評価 [編集]
ファンクラブ「まさしんぐWORLD」の会員数は、現在約25,000人。未だにコンサートの観客動員力は高く、チケットが発売後すぐに売切れてしまうことも多い(実際に、武道館で3333回記念コンサートを行った時は2日間分が9分で売り切れた)。ファンクラブの会員でも1人2枚しか先行予約できない。

2004年に長崎市栄誉市民となった。存命中の人物に贈られたのはさだが初めてである。NHKが行った「紅白歌合戦出場歌手に関する世論調査」では15位にランクインした。2005年のNHK紅白歌合戦で歌ってほしい歌のアンケート(スキウタ紅白みんなでアンケート〜)でも「関白宣言」が男性歌手の中で82位になり、今なおその人気が高いことを証明した。

交友関係 [編集]
ミュージシャン [編集]
谷村新司
さだ曰く「フォーク界御三毛(ごさんけ)」の長兄。日本武道館でジョイント・コンサートを行ったこともある。
南こうせつ
ミュージックフェアなどで共演する機会も多い先輩。イベントなどで共演する度に「神田川」の前奏・間奏のヴァイオリン演奏を依頼され、その度にさだが「精霊流し」のイントロをわざと間違えて弾く、というギャグをかましている。
小田和正
グレープ時代、北海道でオフコース(小田・鈴木二人体制時代)とのジョイント・コンサートを行ったこともあるほか「佐世保」では小田がバックコーラスを務めている。また、2007年12月には小田が毎年出演している特番『クリスマスの約束』にさだが出演し、二人で共同制作した楽曲を披露した。
松山千春
「フォーク界御三毛」のもう一人。コンサートなどではお互いに悪口を言い合っている。過去さだが松山の実家に遊びに行ったこともある仲だったが現在は疎遠になっている。『夜のヒットスタジオ』の最終回ではそれぞれコンサート先の地域のネット局から中継で顔を出し、例の如く罵倒合戦を展開し、司会の古舘伊知郎から「往年の(『笑点』における)小円遊歌丸のようです」と揶揄された。
中島みゆき
「あの人に似ている」を共作。この曲は男の歌(さだ担当)・女の歌(中島担当)がそれぞれ同じコード進行の別メロディーで進行し、サビで一緒になるという複雑な構成になっている。これは、当初さだ・中島で作詞・作曲のどちらかをそれぞれ分担するというオファーになっていたものを、さだが「せっかく中島みゆきとやるのだから」と中島に提案し、あえて複雑にしたものである。その後、中島の要請で二人でのセルフ・カヴァーが実現し、中島のアルバム『おとぎばなし-Fairy Ring-』に収録されている。この時のインタビューではお互いに「ファンだ」と言い合っていた。また、妹の玲子のデビュー曲「くらやみ乙女」は中島が提供している。
森山良子
森山直太朗
森山良子はグレープ時代の『掌』やソロデビュー後の『セロ弾きのゴーシュ』『秋桜』をカヴァーしている。息子の直太朗とは会報誌でさだとの対談が行われる等の親交がある。さだが原作を手掛ける『解夏』のドラマ版『愛し君へ』の主題歌を担当したことから互いのライブ等に行くようになる。多くのライブ本数をこなすさだを尊敬しており、自身もライブこそが最大のコミュニケーションと活動の場をステージに置く事を大切にしている。
岡村孝子
さだに憧れてシンガーソングライターとなる。自身のユニットあみんの名称も、『夢供養』収録の「パンプキン・パイとシナモン・ティー」に登場する喫茶店の名前から採っている。2005年にはNHKの音楽番組『夢・音楽館』で共演したほか、さだが岡村の「銀色の少女」では、詩を提供している。なお岡村との共演が2007年のあみん再結成のきっかけとなった。
小林幸子
さだのことを「お兄ちゃん」と呼んで慕っている。さだは「約束」を提供している。
加山雄三
中学時代、初めて歌を作るきっかけを作った人物(後述)。さだの憧れの人物の一人である。『夏・長崎から』で共演したことがある。
平原綾香
父親の平原まことが何度かさだのバックメンバーとしてコンサートやレコーディングに参加していることから、親子ともども親交があり、綾香自身もさだのファンであることを公言している。平原も「秋桜」をカヴァーしているほか、2006年正月のNHK『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』や最後の『夏・長崎から』にもゲスト出演している。
福山雅治
同郷の後輩で、さだに対して敬意を払っており、福山が言及するときはほぼ必ず「偉大なる」と付けている。「秋桜」をカバーしているほか、自身のラジオ番組で「雨やどり」をかけ、「好きでよく歌うのだが、歌うと泣いてしまう」と語っていた。他にも「関白宣言」「精霊流し」などをラジオのBGMとして使用している。
アレンジャー・バックメンバーなど [編集]
佐田玲子(妹)
佐田大陸(息子)2007年のアルバム『Mist』で初共演。
吉田政美(元グレープ)
石川鷹彦
倉田信雄
松原正樹
坂元昭二
宅間久善
渡辺俊幸
服部克久
服部隆之
福田郁次郎
山本直純
チキンガーリックステーキ
紺野紗衣
平原まこと
ジミー・ハスケル
その他 [編集]
倉本聰
公私共に仲が良く、お互い「先生」「まさし」と呼び合う仲である。さだは倉本が脚本を手がけた人気ドラマ『北の国から』の主題歌「北の国から〜遥かなる大地より〜」を作曲している。また、倉本が骨折した際、さだはライブツアー中で見舞いにも行けず、倉本と再会できたのはギプスも外れてほぼ完治に近い状態であった。しかし、ギプスが装着されていた部分の体毛が以前より濃くなっていたことに気がつき、「まさし、おまえ頭を骨折しろ!」と叫んだとのこと。これも、さだが得意とするステージトークでの自虐ネタとして使用していると共に二人の仲の良さを証明しているものである。
笑福亭鶴瓶
現在は名番組として鶴瓶の代表作となっている『鶴瓶の家族に乾杯』は、NHKからさだまさしに持ち込まれた企画であった。初回はさだがホストで鶴瓶はパートナーであったが、コンサートによる多忙のため、番組の続編を鶴瓶に任せて、現在の形態となっている。このとき、さだは「鶴瓶ちゃんなら」ということで彼に司会をバトンタッチした程、お互いに信頼しあっている。なお、主題歌はさだが担当している。鶴瓶自体は『名古屋から生放送』に電話出演した際に、『鶴瓶の家族に乾杯』について「あれ、アンタの番組やないか」と言っており、本来はさだの番組であるべきだと思っているらしい。
おすぎ
まだ映画評論家としての地位を確立していなかった頃、おすぎの映画評論に感銘を受けたさだが自らのラジオ番組におすぎの映画評論コーナーをレギュラーで持たせていたことがあり、おすぎとさだの親交も厚い。
原田泰治
原田が書いた『さだおばさん』[15]をたまたま書店で目にしたことから交流が始まり、ついにはさだが原田の故郷である諏訪に引っ越し、原田の家の近くに自宅を建ててし