【トヨタ自動車】

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トヨタ自動車

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トヨタは、この項目へ転送されています。その他の用法については「トヨタ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
トヨタ自動車株式会社
Toyota Motor Corporation
種類 株式会社
市場情報 東証1部 7203
大証1部 7203
名証1部 7203
福証 7203
札証 7203
NYSE TM

略称 トヨタ / TMC
本社所在地 日本
〒471-8571
本社:
愛知県豊田市トヨタ町1番地(地番)
東京本社:
東京都文京区後楽一丁目4番18号
名古屋オフィス:
愛知県名古屋市中村区名駅四丁目7番1号
設立 1937年8月28日
業種 輸送用機器
事業内容 自動車(車種一覧を参照)
代表者 豊田章男代表取締役社長)
資本金 3,970億円(2008年3月期)
売上高 連結:20兆5295億円(2009年3月期)
単独:9兆2784億円(2009年3月期)
営業利益 連結:−4610億円(2009年3月期)
単独:−1879億円(2009年3月期)
純利益 連結:−4369億円(2009年3月期)
単独:−566億円(2009年3月期)
純資産 10兆0612億円(2009年3月期)
総資産 29兆0620億円(2009年3月期)
従業員数 連結:32万808人(2009年3月期)
決算期 毎年3月31日
主要株主 日本トラスティ・サービス信託銀行 6.08%
日本マスタートラスト信託銀行 6.05%
豊田自動織機 5.55%
主要子会社 トヨタ車体 56.03%
豊田中央研究所 54.00%
関東自動車工業 50.08%
ダイハツ工業 51.19%
日野自動車 50.11%
他多数
トヨタグループも参照
関係する人物 豊田佐吉(創業者)
豊田喜一郎(創業者)
張富士夫(取締役会長)
渡辺捷昭(取締役副会長)
岡本一雄(取締役副会長)
外部リンク http://www.toyota.co.jp/
表・話・編・歴

トヨタ自動車本社
トヨタi-unit(高速姿勢モード)
トヨタPMトヨタ自動車株式会社(トヨタじどうしゃ、英称:Toyota Motor Corporation)は、愛知県豊田市と東京都文京区に本社を置く日本最大の自動車メーカーであり日本最大の企業。2008年時点においては世界最大の自動車メーカーでもあった。名古屋市中村区の名古屋オフィスをはじめとして世界各地に拠点を有する。

目次 [非表示]
1 概要
2 沿革
3 創業家としての豊田家の存在
3.1 豊田家系図
4 歴代社長
5 経営
6 代表取締役
7 企業文化
8 開発思想
9 技術力
10 販売戦略
10.1 ブランド
10.1.1 トヨタ
10.1.2 レクサス
10.1.3 サイオン
10.1.4 「販売のトヨタ
10.1.5 多様化するマーケット
10.1.6 中国戦略
11 モータースポーツ
11.1 ラリー
11.2 スポーツプロトタイプ
11.3 F1
11.4 その他
12 幻の航空機計画
13 鉄道車両製造
14 研究開発拠点
14.1 国内
14.2 海外
14.2.1 アメリ
14.2.2 ヨーロッパ
14.2.3 アジア・太平洋
15 生産拠点
15.1 国内
15.1.1 直営
15.1.2 関連会社運営(車両生産工場のみ)
15.2 海外
15.2.1 北米
15.2.2 中南米
15.2.3 ヨーロッパ
15.2.4 アフリカ
15.2.5 アジア
15.2.6 オセアニア
15.2.7 中近東
16 車種
17 トヨタグループの関係会社等
18 提携関係
19 ディーラー
20 キャッチフレーズ(コーポレート・ステートメント
21 逸話
21.1 その他の広告
22 事件・問題(関連会社を含む)
22.1 中古車架空販売
22.2 北米トヨタのセクハラ
22.3 過労・サービス残業問題
22.4 アメリカでの380万台リコール
22.5 その他国内における不祥事・事件・事故
22.6 その他海外における法的トラブル
23 関連項目
23.1 スポーツ関連
23.1.1 所属スポーツ選手
23.2 その他
24 脚注
25 外部リンク

概要
日本最大の自動車メーカーであり、日本最大の企業。2007年の世界販売台数はゼネラルモーターズに僅差で迫り[1]、2008年には世界金融危機の中で897万2000台と前年より4%減少したものの、アメリカのゼネラルモーターズがそれ以上に落ち込み835万5947台にとどまったため、ついに逆転し販売、生産の両面で世界一となり名実共に世界一の自動車メーカーとなった[2]。また、ダイハツ工業日野自動車の親会社であり、富士重工業筆頭株主でもある(株式保有比率17%)。

通称「トヨタ」(日本のテレビ局・ラジオ局では、2005年7月より「トヨタ自動車」を改めこの呼称を使用)、英語表記「TOYOTA」。トヨタグループ内では「TMC」の略称で表記される。本社がある豊田市の地名はトヨタ自動車に由来する。2009年6月23日に豊田章男代表取締役社長に就任し豊田家四代目の社長となった。

沿革
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トヨタ初の量産乗用車であるAA型復元車豊田佐吉(とよだ さきち静岡県出身、1867年〜1930年)が創業した豊田自動織機製作所(現在の豊田自動織機)に、1933年9月に開設された自動車部が起源である。この設立の中心になったのは佐吉の息子である豊田喜一郎(1894年〜1952年)であるが、初代社長に就任したのは佐吉の娘婿(喜一郎にとっては義兄〔旧戸籍法では妹の夫が本人より年上である場合、義兄と言う扱いとなる為〕)である豊田利三郎である。織機製作における鋳造・機械加工技術等のノウハウを活かし、研究期間を経て1935年に自動車製造を開始。1937年に独立した新会社「トヨタ自動車工業株式会社」が設立された。

誤解されがちだがトヨタという社名は豊田市で創始されたからではなく、創始者である豊田の名前からである。豊田自動織機製作所は、現在でもトヨタグループ数社が本社を置く刈谷市に所在した。豊田市は元々、挙母(ころも)市という市名だったがトヨタ自動車にちなんで1959年に改名された(本社所在地も「トヨタ町1番」である。企業城下町の典型)。創始者の名前が由来なので創業当時は「トヨダ」であった。ロゴや刻印も英語では「TOYODA」でエンブレムは漢字の「豊田」を使用していた。しかし、品質が向上して、アメリカに輸出をするようになることから、漢字のエンブレムではない英語で共通したものを作るために新トヨダマークの懸賞を行った。その時に「トヨダ」ではなく「トヨタ」の読みで作られたアイデアが多く、実際に「TOYOTA」が採用される。これを機に、日本語も漢字の「豊田」からカタカナ「トヨタ」のエンブレムは社旗となった。

利三郎は太平洋戦争が勃発した1941年に会長に退き、第2代社長には創業者の喜一郎が就任した。太平洋戦争時は陸軍用のトラックを生産したが、物資不足のため簡素なものだった。 愛知の工場は米軍による爆撃が予定されていたが、その前に終戦となる。戦後の1950年、ドッジ・ラインに伴うデフレにより経営危機に陥り豊田喜一郎社長は辞任。 朝鮮戦争勃発で軍用トラック特需があり倒産を回避、同時に技術者の中村健也の監督のもと、国産自家用車の開発を開始。 帝国銀行(後の三井銀行、現・三井住友銀行)を中心とする銀行団の緊急融資の条件として、販売強化のためにトヨタ自動車販売株式会社(「自販」と略された)が設立された。これを工販分離という。 この時に、融資に協力した三井銀行東海銀行がメインバンクとなる。逆に貸付金の回収をした、三菱銀行住友銀行は三菱は東京銀行と、住友は三井銀行と合併するまで50年も口座の開設・取引をされることはなかった。

喜一郎の後を継いだ石田退三社長の時代にはクラウン、コロナ、パブリカなどロングセラーカーを開発し、販売網の整備を推し進めた。1956年クラウンがロンドン-東京間を走破、国産自動車メーカー各社の自信となった。その後中川不器男社長時代にはスポーツ800、カローラハイエース2000GTなどを発売し、豊田英二社長の時代にはセンチュリー、スプリンター、マークII、カリーナ、セリカターセル、コルサ、カムリ、ソアラなどを投入し、公害問題や排ガス規制などに対処した。販売面では1980年にビスタ店を設立し、トヨタ店トヨペット店カローラ店、オート店とともに「販売5チャネル体制」を確立した。

1982年にトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売は合併、現在のトヨタ自動車株式会社となった。新会社の社長には喜一郎の長男・豊田章一郎が就任し、佐吉の甥である英二は会長に退いた。国内市場では1982年のビスタ、1984年のハイラックスサーフ、1986年のスープラ、1989年のセルシオ、1990年のエスティマなど次世代のトヨタを担う車種を投入し、販売高トップの座を不動のものにした。

1992年に章一郎は社長を退き、弟の豊田達郎が社長となった。しかし、バブル経済の崩壊は自動車業界を直撃し、トヨタもその影響を受けた。バブル崩壊後の不況の中、1995年に達郎は高血圧で倒れ、副社長の奥田碩が社長職を継いだ。奥田は業績が下り坂になりつつあったトヨタを再生させ、1999年のヴィッツ発売を機に張富士夫に社長の座を譲った。2003年3月末集計における従業員数は65,551人、トヨタグループの連結子会社の合計は 264,096人で日本最大、世界では第三位の企業規模となった。2004年にはネッツ店とビスタ店が統合され、ネッツ店として再出発した。

2005年にはトヨタ町の本社新本館が完成し地上14階、地下2階の一面ガラス張りの現代的な建物が出来上がった。8月にはレクサス店の日本導入を果たした。同年には渡辺捷昭社長が就任。10月、ゼネラルモータースが保有していた富士重工業株(約20%)のうち8.7%を取得し筆頭株主になった上で、提携を結ぶことを発表。2007年には名古屋駅前にある豊田ビル・毎日ビルの建替えによる再開発で建設されるミッドランドスクエア内に新しい名古屋オフィスが完成し、元名古屋ビル、JRセントラルタワーズオフィス、本社機能の一部と名古屋市内と東京本社からそれぞれ国内・海外営業部門が移転した。自動車生産台数が世界一となる。

しかし2008年に起こった一連の金融危機を直撃し、2009年3月期の営業利益が58年ぶりの赤字に転落[3]。トヨタショックとまでいわれている。皮肉なことにその一方で世界販売台数は897万2,000台となり、前年の生産台数に続いて世界一の座を奪い取った。それまで生産台数世界一を77年間維持していたのはGMだった。また、2009年には本社内にスタジオジブリの新スタジオを設置するなど、新たな試みも模索されている[4][5]。

創業家としての豊田家の存在
「豊田家はトヨタグループの求心力であり、旗でもある」(当時の奥田会長談)とあるように、創業者一族である豊田家はトヨタグループ各社の中核を担う。創業家の長期に渡る介入は、しばしば経営に混乱をもたらすことがあるが、トヨタの場合はむしろ巨大グループを安定的にまとめ上げる役割を果たしてきた経緯があるとされる。現職者・関連企業役員は下記のとおり。

トヨタ自動車名誉会長:豊田章一郎 - 2005年日本国際博覧会協会会長・日本経済団体連合会名誉会長
トヨタ自動車最高顧問:豊田英二
トヨタ自動車相談役:豊田達郎 - 豊田自動織機取締役兼任
トヨタ自動車代表取締役社長:豊田章男
豊田自動織機取締役名誉会長:豊田芳年
豊田自動織機取締役社長: 豊田鐵郎
アイシン精機取締役会長:豊田幹司郎 - アイシン・エーアイ取締役会長兼任
トヨタ紡織取締役社長:豊田周平
新明工業取締役:豊田彬子
東和不動産監査役豊田大吉郎
豊田家系図


豊田佐助 豊田平吉 浅子 (1)豊田佐吉 たみ 三井高棟



豊田稔 豊田芳年 豊田英二 豊田利三郎 愛子 (2)豊田喜一郎 三井高長 興子



豊田周平 豊田鐵郎 豊田幹司郎 豊田大吉郎 豊田達郎 (3)豊田章一郎 博子



(4)豊田章男

※丸数字は豊田本家の代数

歴代社長
豊田利三郎(とよだ りさぶろう、1937年-1941年、初代社長。1952年死去)
豊田喜一郎(とよだ きいちろう、1941年-1950年、第2代社長。1952年死去)
石田退三(いしだ たいぞう、1950年-1961年、第3代社長。1979年死去)
中川不器男(なかがわ ふきお、1961年-1967年、第4代社長。1967年死去)
豊田英二(とよだ えいじ、1967年-1982年、第5代社長。現最高顧問)
豊田章一郎(とよだ しょういちろう、1982年-1992年、第6代社長。現名誉会長)
豊田達郎(とよだ たつろう、1992年-1995年、第7代社長。現相談役)
奥田碩(おくだ ひろし、1995年-1999年、第8代社長。現相談役)
張富士夫(ちょう ふじお、1999年-2005年、第9代社長。現会長)
渡辺捷昭(わたなべ かつあき、2005年-2009年、第10代社長。現副会長)
豊田章男(とよだ あきお、2009年- 、第11代社長。現職)
経営
トヨタ生産方式」も参照

前述の1950年の経営危機を教訓とし、「改善(カイゼン)」、ジャストインタイム(JITカンバン方式)、トヨタ生産方式等の生産・経営のノウハウを確立した。また販売を重視し、銀行融資に頼らず自己資本の充実に努め、名古屋式経営の見本ともされる無借金経営で優良企業の代表的企業とされる。しかしこれはあくまで単独会計の場合であり、連結子会社においては有利子負債が相応に存在し、また顧客貸し出し(自動車ローン)事業をおこなう金融子会社が存在するため、連結決算においては企業規模相応の有利子負債(約12兆円)が存在する。一方で、単独会計で約6.6兆円(これはスイスの単年度国家予算に匹敵する)、連結では約10兆円(ともに2009年3月期)もの多大な自己資本を抱え、トヨタ銀行とも称される。2002年3月期の通期決算において日本企業初の連結経常利益一兆円を超え、さらに2004年3月期の通期決算では、連結純利益(米国会計基準)でも日本企業初の一兆円超えを達成した。そして2007年3月期連結決算(米国会計基準)では営業利益が2兆2,386億円となり、6年連続で過去最高を更新した上に日本企業として初の二兆円の大台を突破しマスコミから絶賛された。

1990年代以後の不況期にはその経営姿勢が注目され、ついにはトヨタ自身も生産方式を他企業にパッケージ販売するに至った。

近年では社会貢献活動に力を入れており、2006年1月からトヨタ社内に「社会貢献推進部」を設置し、交通安全や中国での植林活動、人材育成、自動車のリサイクルなどの環境への貢献などの社会貢献活動を積極的に行っている。

1999年に、東京モーターショー出展のコンパクトカー“ファンタイム”を基に開発された新車種ヴィッツの爆発的ヒットを皮切りに始まった新路線と、2005年3月より9月まで愛知県東部丘陵地区(豊田市長久手町瀬戸市)にて開催された国際博覧会愛・地球博」による東海地方の経済効果、また、2000年代前半における中小企業の徹底的な経営改善などが功を奏した。

しかし、2008年は原油高・世界金融危機による不景気により生産・販売台数が大幅減、一部の生産ラインで連続2交代から昼勤への勤務体制の変更を余儀なくされ、2009年3月期連結決算では前年比約73.6%減の約6,000憶円の見通しとされている。これにより渡辺社長は2008年度末で退任することが発表されている。

代表取締役
会長:張富士夫 - (※日本経団連副会長、日本自動車工業会会長)
副会長:渡辺捷昭、岡本一雄
社長:豊田章男
副社長:内山田竹志、布野幸利、新美篤志、佐々木眞一、一丸陽一郎
企業文化
豊田章一郎は社長時代にトヨタの企業文化について次のように語った。

「何かを決めるまでに時間がかかる。でも、決断したらとことんやる」

豊田章一郎, 『産経新聞』「from Editor」〈F1をめぐる「男の涙」〉2009年(平成21年)11月16日 月曜日 12版 6面

開発思想

初代カローラ1100デラックス(KE10D)開発に6年を費やして1961年に発売された700ccの小型大衆車・初代パブリカは、基本コンセプトとして低廉化・経済性を実現するため、徹底して合理的に設計され、実用車としての完成度は高かった。しかし、「せっかく購入するのだから少々高くても」という消費者心理を掴み切れず販売は不振であった。この不振を分析し、ラジオやヒーター等を装備したデラックスモデルを加えた結果、販売台数は増加した。これを踏まえて、トヨタの80点主義と呼ばれる思想が生まれる。

80点主義とは、1966年に発売された初代カローラの開発主査である長谷川龍雄が打ち出した考え方である。商品の完成度を高める一方で、一部の飛び抜けて優れた機能や性能を追いかけることなく、まず全ての項目において最低でも80点を目指し、及第点に達したのち更に上の点数を順次達成していくトータルバランスを念頭に置いた企業思想である。のちに、この80点主義は80点主義+アルファとなり、旧車種や他社への差別化戦略へと移行していく。

この「80点」という言葉が、各界からは頻繁に「完璧でない、手を抜いた車作り(=完成度は80点でよい)」という批判に用いられる。「80点主義」に対する批判はその提唱からまもなく現れた。 マスメディアに登場する経済評論家や自動車評論家をはじめ世間からも、トヨタの「80点主義」は「80点で良いという考え方」と評価されるケースがほとんどである。ただし、それでも自動車の性能は世界でもトップ水準にある。

技術力

プリウス1950年代から品質管理に力を入れてきた。たとえば、ドアやトランクリッドなどと外板の隙間[6]を狭く均一に仕上げる技術や、ドアの閉まり音、遮音性など、ユーザーにも容易にわかる部分の品質管理には定評がある。手堅い既存技術をブラッシュアップし、低コストで比較的質の高い製品を作る技術に長けており(←ものづくり)、顧客満足度は高い[7]。

1970年代後半から小型乗用車の前輪駆動化が世界的に進行した際、トヨタは前輪駆動を主力車種カローラやコロナに採用する前に、新車種「ターセル・コルサ」や、改良型の中級小型自動車「カムリ・ビスタ」など主力外車種での経験を踏まえた上で、なおかつ、顧客の反応を見るために従来型である後輪駆動車と併売を経て本採用する、という慎重ぶりであった。

また、ヤマハ発動機からは高性能型DOHCユニットの供給を、本田技研工業からは希薄燃焼システムや排ガス浄化システム(CVCC)の技術供与を受けるなど、高度な技術や、排出ガス対策などの緊急を要する技術に関しては同業他社に援助を請う場合もあったが、受け入れた技術に量産に見合う改良を施すことにかけては実力を発揮する傾向がある。燃焼効率の向上を企図した狭角配置の多バルブDOHCエンジン(ハイメカ・ツインカムと呼ばれる。1986年に市販開始)の開発と、量産車への搭載などはその一例である。

1990年代後半、トヨタが先陣を切って普及させた技術としては、内燃機関における吸気時期電子制御システム"VVT-i(Intelligent Variable Valve Timing Control)"である[8]。これは従来、エンジン機関の全体的回転タイミングによって吸気していたものに代え、電子制御により強制的適量吸気を実現したもので、国土交通省(旧運輸省)低排出ガス車認定基準へのほとんどの車種の適合を実現した一要素である。日産自動車のNVCSや富士重工業のAVCS、本田技研工業のi-VTEC、三菱自動車工業MIVECなどは同種のシステムである。

1990年代の業界再編期を経た現在は、グループ内各社との共同開発が一般的となっており、小型車用エンジンの新規設計や一部の小型車の企画ではダイハツ工業の、トラック開発では日野自動車の参画を得ている。燃料電池車や動力分割式ハイブリッドカーの開発では、部品供給で関係の深かった松下グループと連携し、また、欧州では知名度が今ひとつのためもあり、モータースポーツの世界最高峰に位置するF1に参戦するなど、最先端の技術開発・実用化に取り組んでいる。G-BOOK・G-BOOK ALPHAと呼ばれる情報通信システム[9]は、本田技研工業のインターナビに登録者数で負けているが、グループ外他社に供与し、更に利用料を無料にするなど挽回策を図っている。

北海道士別市に巨大なテストコースを持っており、高速域や極寒冷下での試験などをはじめ、海外向け商品の開発にも多面的に取り組んでいる。

2005年8月30日に国内に投入した高級車ブランドレクサスは、当年目標の6割と販売は振るわなかった。これには、これまでのセルシオの事実上の4代目次期型としてブランドの旗艦たる新型LSの導入が遅れたことも要因の一つであるが、トヨタ自身はそれほど深刻に受け止めていない。また世界初のFRハイブリッド車を発売し、新型LSへもハイブリッド車を設定するなど、レクサスへのハイブリッド技術の導入にも積極的である。

トヨタはロボット技術にも力を入れている。ロボット事業を将来の中核事業と位置付けており、実際に事業化する事を前提に積極的な開発が行われている。各地で行われるイベントでも家庭内や介護医療で使われる事を想定したトヨタ・パートナーロボットをお披露目している。

2006年、トヨタの研究開発費は2位の米製薬会社ファイザーを抑え、世界一であった。[10]

販売戦略
ブランド
トヨタ
創業当初から、全国各地の地場資本に協力を求め、早期に販売網を整備していた。この結果培われた営業網の強力さは「販売のトヨタ」と言われ、以降、現在に至るまで営業能力の高さには定評がある。現在、日本国内では4系統のディーラー網を傘下に持つ。

これは喜一郎に請われ1935年にトヨタに移籍した日本ゼネラル・モータース販売広告部長であった神谷正太郎(トヨタ自販初代社長)が、米国ゼネラルモーターズ流の販売方法を取り入れたためである。神谷は日本GMにおいて日本での自動車販売網を整備し、オートローンもはじめるなど、米国GM流儀を日本において徹底させ、戦前の日本自動車市場をフォードと二分していた。

神谷はトヨタの販売責任者となってからは、GM方式を活かしつつ、戦時体制に伴うアメリカ車輸入・国内組み立て停止に乗じ、GM、フォードが開拓していた各道府県のディーラー網を自社ディーラー網として組織化し、巧みに取り込んでいった。この作戦は戦後、自動車製造・販売が再び許可されてから大きく役立てられることになる。

その成功はまず商用車から始まった。1954年に発売された1000ccのSKBトラック[11]は簡素なセミ・キャブオーバー型トラックだが、当時日本国内の市場を席巻していた三輪トラック(オート三輪)へ対抗した商品であり、あえて戦略的に低価格で販売したことで、大きな成功を収めた。これをきっかけに、日本の小型トラック市場は、三輪から四輪に移行することになる。

また、1955年に発売された初代クラウンは、前輪独立懸架や低床シャシーなど、一応ヨーロッパ車並の構成を採った最初の日本製量産車となった。以後クラウンは、国内専用車として独特の発展を遂げ、日本国内の保守的な階層や官公庁用の車両、各種事業用車両としてドメスティックに定着し、2000年代前半からは中国などでも本格生産が開始されている。

1960年代以降は、手堅い保守的設計で排気量やボディサイズにゆとりを持たせ、多くのオプションを用意するという戦略で、競合他社を圧してきた。

1989年(平成元年)に「新しいトヨタが走り始めます」というキャッチコピーでトヨタの新時代・新しいトヨタマークを大々的に宣伝した。国内仕様車では車のフロントグリル等に、車種ごとに異なるエンブレムを装着[12]している。

レクサス

レクサスの広告塔(東京・渋谷)1989年、アメリカで高級車ブランド「レクサス」(LEXUS )を創設し、大型高級セダンの「レクサス・LS」(日本では後に「トヨタセルシオ」として発売)と「レクサス・ES」[13]を発表した。従前、米国トヨタの最上位車種はクレシーダ(日本におけるトヨタ・マークII)であり、トヨタブランドで高級車種を販売することには限界があるとの判断からだった。開業後、日本の大衆車メーカーの参入余地がないと見られていた高級車市場でたちまち成功をおさめ、メルセデス・ベンツをはじめ、BMW、キャデラックなど欧米の高級車メーカーに強い衝撃と影響を与えた。

世界各国で販売開始された後、日本国内にも展開されることになり、2005年8月30日に日本国内向けレクサス・ブランドとして、GSシリーズ、ISシリーズとSCシリーズの3系列投入で発足した。ISシリーズは1か月遅れの2005年9月28日から発売した。高級車ブランドとしてはメルセデス・ベンツBMWに次ぐ販売台数であった。ちなみに、展開前にもレクサスブランドを露出することはあり、その代表にウィンダムを挙げることができる。同車は発売当初から日本国内でのキャッチコピーとして「レクサス ES300」を名乗っていた。日本国内での展開には、一部販売網の再構築やマスコミ各社へ積極的な露出を図ったものの販売台数は予定の約6割にとどまったとされている。2006年9月19日にはレクサスの旗艦車種であるLSシリーズが発売された。しかし依然、販売台数は伸び悩んでいる。

サイオン
サイオン(SCION )はアメリカの若者向けのブランドで2003年に開始。いわゆる「ジェネレーションY」と呼ばれる20代前半の若い世代をターゲットとする。トヨタの主要顧客は概して年齢層が高く、若年層の取り込みが課題であった。商品開発思想や広告展開まで新しい手法を用い、従来の“退屈なトヨタ車”のイメージを覆すことを狙った。クールでスタイリッシュな「ファッション性」を商品力とし、あらかじめ多様なカスタマイズを用意することで「個性化」を呼びかけた。マス(大衆)にもアッパーにも属さない新しいカテゴリの開拓を狙う。開始当時の車種はxA[14]、xB[15]で、後に日本未発売のクーペtCが追加された。

「販売のトヨタ
トヨタは、1950年代後半から60年代にかけて、クラウン、コロナ、パブリカの乗用車3車種を相次いで発売、乗用車の基本ラインナップを構築した。

さらに1960年代後半からは、それぞれの車種がモデルチェンジにより大型化、上級化するに従って、中間モデルを充実させることに力を入れた。すなわち、パブリカとコロナの中間にはカローラを、コロナとクラウンの中間にはマークIIを配し、カローラとコロナの中間にカリーナおよびセリカを配した。車種追加により、パブリカをエントリーモデルとし、カローラ、コロナ、マークII、そして最高峰ブランドのクラウンに至るまでのピラミッド型(あるいはヒエラルキー型)商品展開を完成させたのである。

これは日本的な年功序列や終身雇用といった慣例的制度に支えられ、日本のサラリーマンたちに昇進・昇給が約束されていた時代には、より上位モデルへの買い替えを促すシナリオでもあった。1980年代に用いられたいつかはクラウンというキャッチコピーは、トヨタの販売戦略を端的に表す。一方、販売店系列の整備がすすむと、系列別に同一シャシ・同一ボディでありながら若干意匠を変えた「兄弟車」[16]を投入することで、系列間の競争を促し、さらなる拡販を試みた。

また、全国に配置した販売会社はすべて地元の商業資本との提携で設立しており、他社が販売会社の再編成を余儀なくされた1990年代以降にあっても、各都道府県に密着した手堅い販路を堅持し続けており、地元企業などの社用車需要はもとより、それに付随して個人(自家用車)需要に対してもトヨタ車の販売を強力に支えるバックボーンとなっている。

このような商品展開と販売会社構成など、顧客の動向を重視する経営姿勢は1960年代、日本のモータリゼーションが始まったころは、「技術の日産」に対して「販売のトヨタ」と評された。

トヨタ自動車日本国内販売網年表」も参照

多様化するマーケット
近年では、自動車産業と先進国における市場の成熟、社会環境の変化、世代交代や価値観の変容などを受けて、トヨタの商品も多様な変化に富んだ広範な展開を見せている。

1985年、4ドア車でありながらクーペ並みに全高が低く、徹底的に耽美性を追求したハードトップ車、カリーナEDを発表し大ヒットした。自動車評論家の評価は芳しくなかったものの、その後、国内各社から同種のハードトップ車が続々と登場するきっかけとなった。

1997年、「21世紀に間に合いました」というフレーズで世界初の動力分割式ハイブリッド車プリウスを市場に送り出した。業界では時期尚早と見られていた「エコカー」を、他に先駆けて成功させた。また同年発表しヒットモデルとなったハリアーは、クロスオーバー車、高級SUVという新たなジャンルを生むことになり、その後他社がこぞって追随した。また、本田技研工業に続き南米市場向けにフレックスエンジン車を投入する。

1999年に登場したヴィッツは、日本で長く衰退状態だったコンパクト・カーが復権するきっかけとなり、後にこのセグメントは大きな市場へと発展する。北米においては、従来苦手としてきた若者向け車種と、かつて経済摩擦を起こした経緯から一時注力を手控えてきた「ピックアップ・トラック」の各分野に置ける拡販を試みている。2002年に若者向け銘柄の「サイオン」をスタートさせ、2006年には、フルサイズ・ピックアップ・トラックの最大市場であるアメリカ・テキサス州で、タンドラの生産を開始し、フルサイズ・ピックアップ・トラック市場へ本格参入した。

中国戦略
第一汽車集団と包括提携関係にある。また、2004年9月には広州汽車集団との間でも合弁会社を設立した。

2000年12月15日に四川豊田(現・四川一汽豊田)でコースター(「柯斯達」)の生産を開始。
2002年10月8日に天津豊田(現・天津一汽豊田 第一工場)でヴィオス(「威馳」)の生産を開始。出遅れていた中国市場への進出に乗り出す。
2003年9月5日に四川豊田でランドクルーザープラド(「普拉多」)の生産を開始。
2003年10月8日に長春一汽豊越汽車(四川一汽豊田・長春工場)でランドクルーザー(「陸地巡洋艦」)の生産を開始。
2004年2月23日に天津一汽豊田でカローラ(「花冠」)の生産を開始。
2005年3月21日に天津一汽豊田・第2工場でクラウン(「皇冠」)の生産を開始。
2005年10月24日に天津一汽豊田・第2工場でレイツ(「鋭志」、日本名マークX)の生産を開始。
2005年12月15日に四川一汽豊田・長春工場でプリウス(「普鋭斯」)のノックダウン生産を開始。
2006年5月23日に広州豊田でカムリ(「凱美瑞」)の生産を開始。
2007年5月28日に天津一汽豊田・第3工場で新型カローラ(「卡羅拉」)の生産を開始(従来型カローラ「花冠」の生産も第1工場にて継続)。
モータースポーツ
ラリー

クラウン(オーストラリア・ラリー出場再現車)トヨタにおけるモータースポーツの活動は、1957年オーストラリア・ラリーにクラウンで出場したのが最初。結果は47位だった。

その後、1973年から1999年まで世界ラリー選手権WRC)にトヨタ・チーム・ヨーロッパがカローラレビン、セリカスープラで参戦していた。 1975年の1000湖ラリー(フィンランド)での、カローラレビンによるWRC初制覇に始まり、1984年、1985年、1986年とサファリラリー3連覇をTA64型セリカで達成した。

1988年ツール・ド・コルス(フランス)でST165型セリカをデビューさせ、WRC王座獲得を目指すべく当時最強を誇っていた王者ランチアに挑み、熾烈な戦いを繰り広げることになる。

ST165型セリカで挑んだ1990年とST185型セリカにスイッチした1992年にはカルロス・サインツがドライバーズチャンピオンを獲得。

1993年、1994年には2年連続で日本の自動車メーカー初となるドライバーとマニュファクチャラーのダブルタイトルを獲得した。 また、1994年のサンレモ・ラリーでユハ・カンクネンの手でそれまでのST185型セリカに変わってST205型セリカがデビューした。

迎えた、1995年のWRCトヨタ・チーム・ヨーロッパにとって苦難の年となってしまった。 前年にデビューしたST205型セリカの性能が思わしくなく、辛うじてディディエ・オリオールがツール・ド・コルス(フランス)でST205型セリカによる唯一の優勝を獲得するに留まった。(さらに、この優勝はこのラリーを最終日まで1位で走行していた選手のマシントラブルによるリタイアがあっての優勝だった。)

そして、1995年のラリー・カタルーニャでエンジンの吸気量を制限するリストリクターに意図的に細工を施すという行為が発覚した。とても手の込んだ細工で、エアリストリクターが装着されたトランペット状の部品単体では問題ないが、エンジンに取り付けると吸気の負圧でパーツがスライドして隙間ができ、その隙間から空気を吸入しパワーを上げるというものだった。FIAは写真付きでその方法を公表し、1995年シーズンのドライバー及びマニュファクチャラーの全ポイント剥奪と1996年終了までの出場停止処分を発表した。

その事件から、2年後の1997年シーズン途中、1997年シーズンから始まった新規定WRカー規定を適用し、モデルチェンジ毎に大きくなっていったセリカからセリカ譲りの3S‐GTEエンジンを搭載したよりコンパクトなカローラWRCへとスイッチ。ディディエ・オリオールの手によって1997年のフィンランドラリーでデビューを飾った。

翌1998年、前年に自らの手でカローラWRCをデビューさせたディディエ・オリオールに加えて、カルロス・サインツがフォードから移籍、サインツが開幕戦で優勝を飾る。その後カローラWRCは2勝をマークし、マニュファクチャラーズランキング2位でシーズンを終えた。

翌1999年は優勝こそチャイナラリーのみだったもののコンスタントに入賞を繰り返し、5年ぶり3度目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。しかし、サンレモラリーの直前にトヨタ・チーム・ヨーロッパはWRC撤退とF1参戦を発表、27年にも及ぶ日本最大のマニュファクチャラーのラリーへの挑戦は幕を閉じた。

スポーツプロトタイプ
トヨタが初めてスポーツプロトタイプのレースに参加したのは1966年の第3回日本グランプリである。ただしマシンは市販前のトヨタ2000GTで、純粋なプロトタイプではない。日産/プリンスに対しプロトタイプの開発が遅れたトヨタは翌1967年の第4回日本グランプリを欠場。翌1968年、トヨタは初のプロトタイプレーシングマシン、3リッターV型8気筒エンジン搭載のトヨタ・7をデビューさせる。5月の日本グランプリでは日産・R381に敗れたものの、その他多くのスポーツカー耐久レースで勝利を収める。

翌1969年には5リッターV型8気筒エンジンを搭載するトヨタ・7の第2期モデルが登場する。このマシンもデビュー戦の7月の富士1000kmで勝利を収め、続く8月のNETスピードカップも日産R381を破り優勝。また11月の第2回日本CanAMも制するが、肝心の10月の日本グランプリでは6リッターV型12気筒エンジンを搭載する日産・R382の前にまたも涙を飲む。翌年に向けてトヨタは日本初の5リッターV型8気筒エンジンにターボチャージャーを装着した第3期モデルのトヨタ・7を開発するが、日産が1970年の日本グランプリの欠場を表明したためトヨタも欠場することとなる。トヨタの目は世界に向けられ、トヨタ・7ターボでのCan-Amへの挑戦を決意するが、それが決定したまさにその日、鈴鹿サーキットトヨタ・7ターボをテスト中の川合稔が事故死、これによりトヨタ・7のプロジェクトは白紙にされてしまう。以降80年代までトヨタはプロトタイプカーのレース活動を中断することになる。

1982年に世界耐久選手権(WEC)が日本で開催されると、スポーツプロトタイプカー(グループCカー)を童夢とトムスの共同開発のトムス童夢セリカCで参戦した。

1983年から始まる全日本耐久選手権(1987年より全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権=JSPCに改称)にも参戦し、以後、童夢とトムスの共同開発による4気筒ターボの83C(1983年) - 88C(1988年)、8気筒ターボの88CV(1988年) - 92CV(1992年)を送り込み、1987年からはトヨタの名を冠した「トヨタチームトムス」として参戦を開始し、マシン名も「トムス」から「トヨタ」となり、オイルショック以降中断していたワークス活動の事実上の再開となった。

1985年からはル・マン24時間レースにも参戦を始めた。トヨタエンジンを搭載したマシンのルマン参戦としては1975年のシグマMC-75が最初である。また1973年にマツダロータリーエンジンを搭載したシグマMC-73のリアウィングには「TOYOTA」のスポンサーロゴが書かれている。メーカーでの参戦は途中不参加の年もあるものの、1999年まで行われている。1985年〜1990年まではターボエンジン車で参戦し、1992年〜1993年には当時のF1と同じ規定で造られた自然吸気3.5リッター10気筒エンジンを搭載したTS010で参戦し、1992年には2位を獲得している。1994年には92C-Vを改造した94C-Vで出場、しかしポルシェ962CをGTとして改造した、掟破りとも言えるダウアー962GTの前にまたも2位に終わる。1998年から1999年にかけてToyota GT-One(TS020)でル・マンに参戦。マシン性能をは他社に比べて圧倒的であったが安定度が不足しており、マシントラブルのために最高成績は1999年の2位止まりに終わる。

1992年にスポーツカー世界選手権(SWC)にTS010でフル参戦し、第1戦のモンツァで日本の小河等が優勝した。

F1
トヨタF1」を参照

その他
1994〜1998年には全日本ツーリングカー選手権(JTCC)に参戦し、1994年第4戦SUGOからは全日本GT選手権JGTC:現・SUPER GT)に参戦。GT500クラスでは2005年までスープラ、2006年からはレクサスSCで参戦。GT300クラスにもレクサスISおよび2008年までMR-S、2009年からはカローラアクシオがそれぞれ参戦している。

1996年からアメリカのチャンピオンシップシリーズ (CART) にエンジンマニュファクチャラーとして参戦し、2002年ドライバーズ、マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得し、2003年からは、インディ・レーシング・リーグ (IRL) へ参戦。世界3大レースの一つ「インディ500」を日本メーカーとして初めて制覇。IRLシリーズ参戦初年でドライバーズ、マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得した。なおIRLからは2006年末撤退予定を前倒しし、2005年一杯で撤退した。

アメリカのストックカーレースであるNASCARには2000年にセリカNASCARグッディーズダッシュシリーズで初参戦し、2004年にトップ3カテゴリーへ史上初の新マニュファクチャラーとしてタンドラでNASCARクラフツマントラックシリーズに参戦、2006年にはドライバーズ、マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得した。そして2007年からはカムリでNASCAR最高峰カテゴリーにあたるネクステルカップシリーズ(現・スプリントカップシリーズ)とブッシュシリーズ(現・ネイションワイドシリーズ)へ参戦し、2008年のスプリントカップ第4戦で外国車メーカーとしては1954年のジャガー以来、日本車メーカーとしては初となる最高峰カテゴリーでの優勝を果たした。

またアマチュア向けとして、ヴィッツ(2006年まではアルテッツァも)のワンメイクレース「ネッツカップ」、ラリー初心者向けのワンメイクラリー「TRDヴィッツチャレンジ」などを開催しているほか、若手ドライバー育成を目的としたジュニア・フォーミュラのシリーズとしてフォーミュラチャレンジ・ジャパン(FCJ)を日産・ホンダと共同運営するなど(2007年まではフォーミュラ・トヨタも存在した)、底辺カテゴリーの拡大にも力を入れている。

また若手レーシングドライバー育成プロジェクトとしてフォーミュラトヨタレーシングスクール(FTRS)やトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム(TDP)を運営。2007年には契約ドライバーの中嶋一貴がF1第17戦ブラジルGPでウィリアムズからF1デビューを飾り、2008年には同チームでレギュラードライバーとしてフル参戦することになった。

幻の航空機計画
トヨタは戦前に航空機を開発していたことが明らかにされている。 戦後にも航空禁止解除をにらんで航空機分野への進出企画していたが、立川飛行機から招いた長谷川龍雄技師から現状のトヨタの体制では無理という旨の意見を聞き断念している。 1999年3月4日に子会社のエアフライトジャパン社に、エンジン燃料系統に改造を加えたパイパー機に試験飛行を行わせた。しかしながら、改造に対して十分な配慮がなされていなかったためにエンジンが停止し海上に墜落、搭乗者3名全員が死亡した。提携関係で同社が筆頭株主富士重工業が航空宇宙部門を持っていること、最近では三菱重工が主体となっている国産旅客機MRJに対して資本参加を発表したことから航空産業への思い入れが垣間見られる。

鉄道車両製造
1950年代〜70年代、トヨタ自動車工業本社工場や元町工場から名古屋鉄道三河線土橋駅への専用線では、多くの小型ディーゼル機関車が運用されていた。これらの機関車は日本輸送機、加藤車両、日本車輌の製造であったが、一部の機関車はトヨタ自動車工業で自社製造され、名古屋鉄道の車籍を有していたものもあった。その中にはガソリンエンジンを動力源とした機関車(GB10形)も存在したという。 これらのトヨタ製の機関車は、トヨタ自動車工場内専用線のみで使用されたものであり、台数、運用範囲も限定され、他の鉄道会社では使用されなかったようである(トヨタ製のエンジンを用いた各地の森林鉄道、鉱山鉄道などの機関車は存在したが、トヨタ自動車の製造した機関車では無い)。

研究開発拠点
国内
トヨタテクニカルセンター(愛知県豊田市本社内)
デザイン、プロトタイプの研究開発とその企画、車両の評価等
東富士研究所(静岡県裾野市御宿) - (1966年設立)
車両の新技術開発及びエンジンの新技術研究
東京デザイン研究所(東京都八王子市石川) - (1989年設立)
先進的なスタイリングのデザイン研究・開発
士別試験場(北海道士別市温根別町) - (1984年設立)
車両の高速総合性能、各種寒冷地試験及び評価
東京開発センター(東京都港区台場) - (2005年設立)
電子技術分野の先行技術開発
豊田ビームライン(兵庫県佐用郡佐用町) - (2008年度着工)
SPring-8を利用した燃料電池車、触媒などの技術開発[1]
海外
アメリ
トヨタテクニカルセンターU.S.A.(TEMA-TTC) - (1977年設立)
(本部)ミシガン州アナーバー : 技術調査、研究開発、現地車両設計・評価
(分室)ミシガン州プリマス : 試作車両工場
カリフォルニア州トーランス、ガーデナ : 車両評価、エンジン適合
アリゾナ州ウィットマン : 総合車両評価
海外におけるトヨタ最大の研究開発拠点。米国現地部品・材料の開発、車両評価やエンジン適合、技術調査などの研究開発業務、および、北米向けの製品の技術開発、現地生産車両の開発を実施。
キャルティデザインリサーチ - (1973年設立)
(本部)カリフォルニア州ニューポートビーチ
(分室)ミシガン州アナーバー (TEMA-TTCに併設)
トヨタ初の海外でのデザイン開発拠点。米国向け車両デザインの調査・開発。
ヨーロッパ
TME研究開発グループ - (1987年設立)
(テクニカルセンター) ベルギー ザベンタム
(分室) イギリス ダービー州とドイツ ケルン
欧州事業サポート、欧州環境での車両・材料評価、認証、技術調査・研究、現地車両開発
トヨタヨーロッパ・デザインディベロップメント(フランス コートダジュール)- (1998年設立)
外観・内装・カラーデザインの開発研究、モデル製作、デザイン調査
トヨタモータースポーツTMG)(ドイツ ケルン) - (1993年設立)
F1カーの開発、F1レースへの参加
アジア・太平洋
トヨタテクニカルセンターアジア・パシフィックタイ(TTCAP-TH)(タイ・サムットプラーカーン) - (2003年設立)
デザインの研究開発・評価、技術調査、現地車両開発
トヨタテクニカルセンターアジア・パシフィックオーストラリア(TTCAP-AU)(オーストラリア・ビクトリア州メルボルン) - (2003年設立)
デザインの研究開発、技術調査、現地車両開発
生産拠点
国内
直営
本社工場(愛知県豊田市) -(1938年操業)(工場コードA11)
ランドクルーザーのローリングシャーシ(1951 - 2007年8月)、ピックアップトラック、トラックのラダーフレームプリウスのドライブトレーン、ノア、ヴォクシー
元町工場(愛知県豊田市) -(1959年操業)
クラウン、クラウンマジェスタマークXエスティマ
上郷工場(愛知県豊田市) -(1965年操業)
エンジン、他
高岡工場(愛知県豊田市) -(1966年操業)(工場コードA31、A32)
カローラ(海外仕様を含むシリーズ全般)、ヴィッツ、ist(サイオン・xD)、ラクティス、オーリス、iQ
三好工場(愛知県みよし市) -(1968年操業)
足回り機械部品、他
堤工場(愛知県豊田市) -(1970年操業)(工場コードA41,42)
カムリ、プレミオ、アリオン、ウィッシュ、プリウス、サイオン・tC、足回り機械部品
明知工場(愛知県みよし市) -(1973年操業)
足回り機械部品、エンジン、他
下山工場(愛知県みよし市) -(1975年操業)
エンジン(エンジン一部を除くZR・GR・AZ型式などを生産)
衣浦工場(愛知県碧南市) -(1978年操業)
足回り機械部品、他
田原工場(愛知県田原市) -(1979年操業)(工場コードA51〜55)
第一製造部:レクサス・GX、ランドクルーザープラド、ランドクルーザー(2007年 - )
第二製造部:RAV4ヴァンガード、ウィッシュ(2代目、2009年 - )
第三製造部:レクサス・LS、レクサス・GS、レクサス・ISレクサス・IS F
PDI(Pre-Delivery Inspection)センター:アベンシス(TMUKから輸入後の検査のみ)
注:第三製造部のみレクサス系セダン専用工場となり、技能員の制服・制帽も他とは異なる。