【NHK紅白歌合戦】=3万2500字

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NHK紅白歌合戦】=3万2500字

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NHK紅白歌合戦

会場のNHKホール(1973年から)
ジャンル 音楽番組 / 特別番組
放送時間 毎年12月31日19:15 - 23:45
(2009年現在、4時間30分)
放送期間 1951年1月3日 - 現在(テレビ放送は、1953年1月2日から)(60回)
放送国 日本
制作局 NHK
(放送:総合テレビ・BS2・BS hi)
プロデューサー 石原真
(CP、第56回(2005年) - )
出演者 各回の概要を参照
音声 ステレオ放送[1]
字幕 リアルタイム字幕放送[2]
データ放送 双方向サービス
オープニング 歌の力(テーマ曲)
エンディング 蛍の光
外部リンク 公式サイト

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特記事項:
第1回(1951年)から第3回(1953年)までは正月の放送。大晦日(12月31日)の放送は第4回(1953年)から。そのため、1953年は2回放送があった。
放送時間は、中断して放送される『NHKニュース』を含む。

NHK紅白歌合戦
ジャンル 音楽番組 / 特別番組
放送方式 生放送
放送期間 1951年1月3日 - 現在
放送時間 毎年12月31日19:15 - 23:45(2009年現在、4時間30分)
放送回数 全60回
放送局 NHKラジオ第1
出演 #各回の概要参照
テーマ曲 歌の力
プロデューサー 石原真(CP、第56回(2005年) - )
公式サイト 公式サイト
表・話・編・歴
NHK紅白歌合戦』(エヌエイチケイこうはくうたがっせん)は、NHKが毎年12月31日(第4回より)の夜に生放送する紅白対抗形式の音楽番組である。通称は、「紅白」。会場は、NHKホール(1973年から)。テレビ放送は、1953年1月2日からである。デジタル双方向機能対応番組。

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NHK紅白歌合戦の主要記録一覧
目次 [非表示]
1 放送メディア・放送時間
2 番組内容
3 出場者の決定
3.1 「出場辞退」
4 司会者
5 話題性
6 歌唱中のパフォーマンス
7 観覧方法
8 歴史
8.1 開始当初 - 1960年代
8.2 1970年代 - 1990年代
8.3 2000年代 -
8.4 審査方法の歴史
9 各回の概要
9.1 歴代トリ歌手とその曲目
10 紅白歌合戦の主な記録
11 裏番組
12 同じコンセプトを持つ企画など
13 脚注
14 出典・参考文献
15 関連項目
16 外部リンク

放送メディア・放送時間 [編集]
国内向けにはNHKの総合テレビ・デジタル総合テレビ・衛星第2テレビ・デジタル衛星ハイビジョンラジオ第1放送で放送される。このうちアナログ衛星第2テレビではBモードステレオ放送で、デジタル総合テレビ・デジタル衛星第2テレビ・デジタル衛星ハイビジョンでは5.1chサラウンドステレオでNHKホールの臨場感を楽しめる。ラジオ中継では、客席上のラジオ中継席からステージ上で行われていることの実況とともに放送。海外向けにはNHKワールド・プレミアムとNHKワールド・ラジオ日本で放送される(短波放送は地域により数時間遅れまたは後半部分のみの放送だが、2007年以降は東南アジア・アジア大陸地域の同時放送のみ。2009年以降は衛星ラジオでも放送。)。またNHK主体ではないが、海外の現地ケーブルテレビチャンネル(主として日本専門チャンネル)を通じて放送されることがある(NHKワールド・プレミアム放送の際には字幕がないため)。
開始時刻は1967年・第18回以来長らく21:00(JST、以下同じ)に固定されてきたが、2部制となった1989年・第40回から19:20に、2009年・第60回は19:15に繰り上がった。その後、開始時刻は年によって19:20から20:00の間で推移している。第2部の開始は21時台、特に1994年・第45回以来は21:30に固定されていたが、第60回は30分繰り上がり21:00となる。
終了時刻は1962年・第13回以来一貫して23:45である(総合テレビの場合。放送メディアによって例外もある)。
第1部と第2部の間の5分間(第50・54・55回は10分間)は、その年の最後のNHKニュースを放送する。ただし、デジタル衛星ハイビジョンは別番組に差し替えとなる。第57回までは「デジタル紅白○○(西暦)」と題した独自番組を放送していたが、第58回以降では番組案内スポットを放送。
総合テレビ・BS2・BSハイビジョンはリアルタイム字幕放送を実施(総合テレビ・BS2は中断ニュースも含む)。
番組内容 [編集]
その年を代表するアーティストが女性は、紅組(あかぐみ)、男性は、白組に分かれて対抗形式で歌や演奏を披露する。
男女混合グループの場合は、男女の人数に関わらずメインボーカルの性別を優先する。例えばEvery Little ThingDREAMS COME TRUEなら紅組、サザンオールスターズ米米CLUBなら白組(サザンオールスターズのメンバーの原由子はソロとして出場する際は紅組で出場)である。
男女のデュエットは基本的に紅組扱いとなる(例外として、1978年・第29回の平尾昌晃・畑中葉子は白組で出場。おそらく、平尾がこのデュエット以前にソロ歌手として白組出場経験があることを考慮したものと思われる。またヒデとロザンナも白組から出場)。
複数の男女混合ボーカルグループの場合も紅組の可能性が高いと思われるが、場合によっては枠が空いている組に振り入れられると言うこともあるとされる。1972年・第23回の青い三角定規の白組出場がその例。
ソロ歌手同士の男女デュエットやコラボレーションなどの場合は各々がそれぞれの組の出場歌手として出場する。1992年・第43回の堀内孝雄桂銀淑のデュエットや2003年第54回・の女子十二楽坊錦織健、森山良子・BEGIN・夏川りみのコラボレートなど。
2005年・第56回ではゴリエ(ゴリ)が女装した男性のソロでは初めて紅組で出場した。理由は、実際に歌っているメインボーカルがゴリエ本人ではなく女性(ジャスミン・アレンジョアン)であるから。逆に、和田アキ子は「m-flo loves AKIKO WADA」として白組で登場した。これはメインボーカルのm-floが男性ユニットのためである。
2007年・第58回では、性同一性障害を抱える戸籍上は男性の中村中が紅組で出場した。
2008年・第59回では、フジテレビ系列の『クイズ!ヘキサゴンII』から誕生した女性3人組であるPaboが同じ番組から誕生した男性3人組である羞恥心をメインとしてまとめられる関係上、白組で出場した。
男女混成グループの出場は、番組初期は認められなかった(女性ボーカルのみが紅組で単独出場したり、男性ボーカルのみが女性ボーカルのパートも兼ねて男性陣のみで白組に出場する等の処置が取られていた)が、1968年・第19回にピンキーとキラーズが出場したことを機に解禁となった。
選ばれる曲は原則としてそのアーティストのその年のヒット曲である。しかし、例外も多い。たとえば、森進一は1971年のヒット曲『おふくろさん』を今日まで7回歌っている。薬師丸ひろ子のヒット曲・『セーラー服と機関銃』を紅白で歌ったのは本人ではなく桜田淳子だった(1982年・第33回)。その回のテーマに沿った歌が選ばれることも多い。また、何度も同じ曲を歌う場合も多い。
選曲権は歌手側にはほとんど与えられずに、NHK側から歌手側に一方的な押し付け状態となっており、この事を和田アキ子が「(歌唱時の)衣装選びに困る」「新曲を歌いたいのに歌えない」などと批判している。また、これが原因で辞退する歌手もいる(1991年・第42回のHOUND DOGなど)。
「歌合戦」と称しているものの、演奏のみで歌わないグループの出場もある。1990年・第41回のG-クレフや2003年・第54回の女子十二楽坊などが例。
歌の間には応援合戦やアトラクションが行われる。かつてはほとんど恒例というべき出し物もあった。
1970年代、紅組では若手歌手によるラインダンスが、白組では組体操が行われた。
出場歌手への激励や出場を祝福するための電報の紹介が行われていたことがあった。特に昭和基地南極観測隊からの電報は恒例であった。2002年・第53回以降はそれが電子メールに変化している。
勝敗はゲスト審査員(タレント・スポーツ選手・著名人など)とNHKホールの観客および地上・BSデジタル放送の双方向システムや携帯電話を利用した視聴者の投票で決定する。審査とその結果の発表方式は回によって異なる。
過去の対戦成績は白組の32勝28敗である(2009年・第60回まで)。
勝敗はトリの後攻である大トリを取ったチームが断然有利である。
優勝チームが決まると「○組 優勝!!」の字幕スーパーが画面いっぱいに出る。また天井から大量の紙吹雪がステージいっぱいに降る(風船、紙テープは入っていない)。優勝チームの司会者(つまり、キャプテン)に優勝旗が手渡される。紙吹雪は放送終了(『蛍の光』の場面)まで降り続く。
初期には優勝チームが決まるとステージ中央に吊されたくす玉が割れて、紙吹雪と風船とともに紙テープが降った。なおテレビ番組で初めてくす玉・紙吹雪・風船・紙テープの演出を行ったのがこの番組であり、その後のテレビ番組の演出(クイズ番組(MBSアップダウンクイズ」)等やゲーム番組、その他の歌合戦番組等)のさきがけになった[要出典]。
ただし、2009年・第60回は画面いっぱいには出ず、下部分に出た。
番組のフィナーレは、一部の回を除き『蛍の光』を全出演者(出場歌手・司会者・審査員)で大合唱される恒例である。例外として、東京オリンピックを翌年に控えた1963年・第14回は『東京五輪音頭』が歌われた。また、2007年・第58回は『蛍の光』とセットという形で、SMAP槇原敬之のメインボーカルにて『世界に一つだけの花』も歌われた。
合唱の指揮者は藤山一郎が死去する前年の1992年・第43回まで務めた(1971年・第22回は岩城宏之が務めたが、総合指揮者として藤山も出演)。藤山は1957年・第8回まで歌手として出場した後、東京放送管弦楽団指揮者として出場しており、番組最多出場記録である。
藤山の死後の1993年・第44回 - 2005年・第56回まで作曲家の宮川泰が務めた[3]。
宮川の死後の2006年・第57回以降は作曲家および歌手の平尾昌晃が指揮を務めている。
放送するにあたっては、番組内でのサプライズやトークも進行台本にト書きされており秒単位での進行が行われている。ゲネプロでは代役を立たせる事は(ほぼ)無く、バックバンドやダンサーを含む出演者ら本人及び、照明からセットを含むゲネプロを行い本番同様の綿密な予行演習が連日にわたり実施される。進行に差し支えるような事故があった場合も想定されており、番組内で行われるゲーム等の企画で進行の調整を行っている。
教育テレビのキャラクターたちが着ぐるみで登場することもある。
出場者の決定 [編集]
基本的には、前年の紅白歌合戦終了後からの1年間にヒット曲を出した歌手が選考対象となり、本人や所属事務所への出場意思の有無の確認やNHK内部での選考会議など数ヶ月にも及ぶ作業を経て、その出場者は例年11月頃に正式に決定され、記者会見・プレスリリース・ホームページなどで順次公表される。
紅白出場者の選考については、音楽業界での活躍・CDセールスの実績・実力・知名度・話題性などが重要であるが、他にもNHK番組への出演・関与や番組主題歌の歌唱など、NHKに対する貢献度も選考を左右する要素の1つとなっている。そのため、日頃のNHKのテレビ・ラジオの各種番組への積極的な出演やテーマ曲などの楽曲提供を評価されて、大きなヒット曲や話題性がなくとも出場し、紅白の舞台でNHK番組のテーマ曲や過去のヒット曲を歌う者が見られている。この事もあって、週刊誌やスポーツ新聞などが紅白出場を有力視する様な人物・グループが、早ければその年の上半期の段階から現れる事もある。特にオリンピック関連の特別番組のテーマ曲を担当した歌手は、事実上ほぼ自動的に、その年の紅白の「当選確実」の扱いをされる。他方では、同様に週刊誌やスポーツ新聞の紅白出場者予想の特集記事などでは音楽セールス実績面から出場を確実視されながらも、「NHKとの縁にうまく恵まれず、大ヒットを飛ばしながらもついに声が掛からず出場が叶わなかった。あるいは初出場までに長い時間を要した」と言われる様な者も存在する(一時期の米米CLUBなど)。
音楽業界で大きな実績を残しながらも解散を決定したバンドグループや、引退・休業を発表した歌手を選出することもある(都はるみチェッカーズなど)。この場合、紅白がラストステージ(ないし最後のテレビ出演)となることも少なくない。
歌手・楽曲のジャンルによっても選出の可能性は少なからず左右される。例を挙げると、クラシック音楽系、ヘヴィメタル系、歌手活動も行っている声優(アニメソングを活動の中心とする歌手を含む)などのジャンルから選出された事例は非常に少ない。声優で選出されたのは水樹奈々1人。ヘヴィメタル系も聖飢魔IIが唯一の事例であり[4]、しかも歌唱した楽曲はメタルとはいえ曲調の穏やかなメイジャーコードのバラード曲(『白い奇蹟』)であった。逆に社会的あるいは音楽市場全体に影響を与えたと言える程の一大ブームを巻き起こしたジャンルの場合、視聴率への速やかな波及が期待できることもあり、ジャンルとしては勃興期にあっても複数のグループが出場を果たすことがある(ヴィジュアル系の各バンドなど)。
近年は海外のアーティストの招聘にも積極的であり、アジア・南米からも出場者が現れている。2004年(第55回)のRyu、イ・ジョンヒョンの出場は話題になった。
ジャニーズ事務所からの出場者は1994年(第45回)から2008年(第59回)まで、近藤真彦の返り咲き出場を例外とすればSMAPTOKIOに限定されていたが、2009年(第60回)で嵐とNYC boys(「こども紅白歌合戦」に出場したスノープリンス合唱団も含めると5枠)が出場した[5]。尚、芸能事務所毎に一定の枠が設けられる慣例について、第60回出場歌手発表後にNHK側は「枠を設けたことはない」と説明した[6]が、番組終了後に同事務所の社長であるジャニー喜多川が「NHKに2枠固定と言われ意固地になっていた」と事務所ごとの一定枠が存在することを示唆する発言をしている[7]。
第52回(2001年)にRe:Japanの出場決定で打ち合わせに訪れた松本人志NHKスタッフより「ご出場おめでとうございます」と言われ憤りを感じたと述べている。(通常の番組は「ご出場(ご出演)ありがとうございます」)(松本人志の放送室より)
「出場辞退」 [編集]
紅白歌合戦については、出場と同様か時にそれ以上に、出場の辞退が大きな社会的話題となる事が見られる。

上述した様に、一時期の驚異的な視聴率を誇った頃ほどではないにせよ、現在でも紅白歌合戦には出場できるだけでも栄誉とされ、また出場の経歴が箔となりその後も様々な商業的な効果・価値を出場者にもたらす一面がある。この事から、NHK・音楽業界・芸能界(演芸など)のいずれにとっても特別な位置付けがなされている番組である。また、NHKは公共放送でありその番組は国民が払う受信料によって制作されている。そのため、上述した様なレコード・CDの売り上げやNHKへの貢献度、芸能事務所毎に割り振られた出場枠などの他にも、本人や周囲にスキャンダル・不祥事が発生していない事、すなわちイメージがクリーンである事も、出演者の選出・決定にあたって満たさなければならない重要な必要条件の1つとなっている。

この事もあって、過去から現在に至るまで、暴力団関係者の宴席への出席や、金銭面のトラブルなどといったスキャンダル・不祥事が発覚したことにより、「出場を希望したが不祥事を理由に落選」という形にされる前に、「内々で辞退」という形で歌手サイドが自ら出演を断念するケースが幾度も繰り返されている。また、この様な出来事を巡って週刊誌などで音楽業界や芸能界の暗部を窺わせる様な報道が見られる事もある。

特に暴力団・ヤクザなどの反社会的勢力が絡むスキャンダルは、紅白出場を目指す人物にとっては大きなタブーである。過去には美空ひばりが、1973年に暴力団構成員であった弟のかとう哲也に絡む不祥事の余波を被る形で事実上の落選となり、以後は「自発的に出場辞退」という形をとり続けたが、実際には紅白を事実上追われて、正式な出場歌手としてはついに復帰できなかった事は有名である。2008年にも同様に暴力団組長が主催したゴルフコンペに複数のベテラン歌手が参加した事が発覚、この歌手たちについてNHKは「当面は番組出演見合せ」という措置を取り、歌手たちの所属する事務所は「辞退という形を取った」と主張したものの、この年の第59回ではやはり事実上の落選という事になった。また、1986年の第37回では、北島三郎山本譲二暴力団の宴席への出席が明らかになり12月29日に出場辞退を余儀なくされ、代役として角川博鳥羽一郎を選出したものの、今度は鳥羽が自身も暴力団と過去に関わりがあったことを自ら暴露し、この一件に対するNHKの偽善の姿勢を批判して辞退、最終的には30日午後というギリギリの段階で、31日夜のスケジュールがたまたま空いていたシブガキ隊を確保して代替出場させ、どうにか取り繕ったという事例も発生している。

不祥事以外でも出場の可否を巡る話題が発生するケースもある。2008年・第59回では浜崎あゆみが直前に右手を負傷し緊急手術を受ける事態となり、紅白直前の日程のテレビ出演のキャンセルを余儀なくされたものの、最終的に紅白には出場を果たした。だが、この際には浜崎が出場できるか辞退を余儀なくされるかを巡って、さらには浜崎は通常は右手でマイクを握る事から、紅白に出場する場合どうやってマイクを使用するかについても、日程のギリギリまで各種マスコミで扱われた。

また、ベテランの域に達すると、「紅白常連組」として知られていた歌手の中にもいわゆる「紅白卒業」を表明し、以後は基本的に出場を辞退するようになる者が見られる(三波春夫布施明島倉千代子など)。なお、この場合の理由は、「引き際を大切にしたい」「後進に道を譲る」「自らの楽曲のジャンルに対する番組制作サイドの軽視への不満」「毎年繰り返される落選への恐怖に耐えられない」など歌手毎に様々である[8][9]。これは連続出場していた歌手が、落選された回以降は出演しないと明確に発言する場合もあり、連続出場が途絶えた回を境に「卒業する」と明言する歌手もいる(中山美穂など)。

なお、出場が正式決定した後になってから、いわゆる不祥事・スキャンダル以外の歌手側の都合で出場を辞退し、代替出場の歌手が立てられたケースは少ないが過去に4回ある。

第2回 松島詩子 - 理由・交通事故に遭遇した事による負傷。代役は越路吹雪
第21回 江利チエミ - 理由・「ヒット曲がない。」という歌手側の意向。代役は日吉ミミ
第39回 田原俊彦 - 理由・「紅白は卒業した。」という歌手側の意向。代役は男闘呼組
第42回 HOUND DOG - 理由・歌唱曲の選曲を巡ってNHKとの間でトラブル。代役はバブルガム・ブラザーズ
この他、出場する予定だったグループの一部の人物が、病気・不祥事などの理由により欠場・出場辞退という事態となり、残りのメンバーで出場したケースも存在する。

司会者 [編集]
出場歌手同様、司会者の人選も世間・マスコミの大きな関心を集める。

紅組司会・白組司会・総合司会と司会分担されており、紅組司会・白組司会は出場歌手の紹介などを行い、総合司会は全体の司会進行を行う。

司会のスタイルは、大部分を両軍司会がそれぞれ下手(紅組)、上手(白組)に分かれて別々に進行するのが恒例だったが、2007年以降は両軍司会が揃って進行する事が多くなった。

基本的に紅組司会は女性が務め、主に女優・歌手・元お笑いタレントといった女性タレントが起用される事が多いが、1953年1月・1954年・1986年・1998年から2004年はNHKの女性アナウンサーが務めた事もある。例外として紅組司会を男性が務めたケースが過去2人で3回あり、1人目は1955年・1956年の2回担当した当時NHKアナウンサーの宮田輝、2人目は2007年のSMAP中居正広である。白組司会は男性が務め、番組初期から1967年・1970年から1986年・2001年から2004年はNHKの男性アナウンサーが務めており、1968年から1969年・1986年から2000年・2005年以降は歌手・俳優・フリーアナウンサー上方落語家といった男性タレントが務めている。また、1986年・2003年には組司会がそれぞれ2人体制となった。総合司会は基本的にNHKアナウンサーが務め、男性が務める事が多いが、1988年以降はNHKの女性アナウンサー1人のみや男女2人が務める事もある。NHKアナウンサー以外が務めた例は過去2人のみで、1人目は1983年のタモリ、2人目は2005年のみのもんた(この年は後述の通り「司会グループ制」となったため、正式な総合司会ではない)である。

NHKアナウンサーが現在まで全ての回において紅組・白組・総合となんらかの形で司会に携わっている。

司会選出に当たっては、大河ドラマ連続テレビ小説の主演・出演俳優、出場歌手、同局の人気バラエティ番組・音楽番組の司会者、看板アナウンサーなど様々な人選がされており、司会経験が手薄な人物が選出されるも珍しくない。また、古舘伊知郎みのもんたと民放アナウンサー出身者からの選出もされている。なお、芸能人が司会を務めた場合、ギャラは民放番組の10分の1程度である100〜150万円程度だという。

出場歌手が司会を兼務する際は、基本的に出場歌手・司会どちらも同じ組から行うが、例外として2007年SMAP中居正広は出場歌手はSMAP名義で白組・司会は紅組で行った。なお、出場歌手が司会を兼務する場合、歌手としての出番の曲紹介は基本的に相手組司会・総合司会・出場歌手が代理で担当するが、自ら紹介する事もある。また、本業が歌手の人物が出場歌手には落選した上で司会を務めたケース、司会を務めた翌年に歌手として初出場を飾ったケース、同じ回に歌手初出場と初司会を共に果たしたケースもある。

2001年〜2004年までは当時NHK会長だった海老沢勝二の「NHK色を強めたい」との強い意向により、紅組・白組・総合と全ての司会をNHKアナウンサーが務めた。

2005年は初めて紅組・白組・総合の司会の区別を撤廃し「司会グループ制」がとられたが、実際の放送では、役割分担がされていた。

話題性 [編集]
毎年、テレビ視聴率が非常に高いことで知られる。1962年・第13回の調査開始以降での最高視聴率は1963年・第14回の81.4%(関東地区、以下同じ)[10]。1980年代前半までは「お化け番組」「怪物番組」とも称され、新聞社系の週刊誌でも「紅白で歌われる曲の歌詞一覧」といった特集を組んだ[要出典]。もっとも近年は地方でも民放局(殆どが平成)が開局し視聴できる裏番組が増えたことや生活の多様化などにより[要出典]、視聴率は漸減傾向が続いている。最低視聴率は2004年・第55回の39.3%である[10]。それでも毎年、年間視聴率では民放の人気番組(ドラマ・バラエティ)を抑え、ベスト5にランクインしている(ビデオリサーチ調べ)。
紅白への出演がアーティストの翌年初頭のCD売り上げに少なからぬ影響を与える。この現象は俗に「紅白効果」と呼ばれている[11]。紅白出演後に紅白で歌われた曲が初めてオリコンシングルチャートで週間1位を獲得した例としては1986年・第37回出場の吉幾三の『雪國』(1987年2月9日付)、2002年・第53回出場の中島みゆきの『地上の星』(2003年1月20日付)、2006年・第57回出場の秋川雅史の『千の風になって』(2007年1月22日付:クラシックの同チャート1位は史上初)がある。2003年・第54回に大トリを努めたSMAPの『世界に一つだけの花 (シングル・ヴァージョン)』はそれまでランクが落ちていたが、紅白出演後の翌年1月5日にオリコンシングルチャートで週間1位に返り咲いた。
司会者、出場者、曲目、曲順などが決定すると、そのつど大きく報道される。司会者や初出場者などの記者会見の模様はNHKニュース、新聞各社はもちろん、民放各局の情報番組・ワイドショーでも大きく報じられる。他方では民放番組で「大晦日は○○(自局の大晦日夜の特別番組)をご覧ください」などというように、紅白報道の直後に自局の大晦日特番の宣伝が差し込まれる事もよくみられる。このことは、紅白の話題を取り上げて自局の情報番組への注目度・関心度を高めたい一方、この報道によって紅白への注目度・関心度が高まって自局の大晦日特番から注目をそらしてしまうというジレンマを抱えていることを象徴している。
これはテレビ局にもよるが、大晦日特番と情報番組では制作する部署・スタッフ・関連する番組制作会社などが全く異なる事が多く、情報番組側関係者が自身の番組の視聴率に直結しやすい紅白の話題を追いかけてしまう事なども要因となっている。
芸能レポーター梨元勝によれば民放に紅白の取材が開放されたのは1981年以降のことであり、そのきっかけとなったのは『アフタヌーンショー』(テレビ朝日系)の突撃取材だったという[12]。これ以降、今でも民放の情報番組は紅白の存在を無視する事ができなくなっている。
舞台袖の通路は放送時間中から終了後に掛けてアーティストが大挙して往来するため、正月明けに民放各局のワイドショーで大きく扱われる。この通路は和田アキ子が翌年の干支の被り物をして通ることでも有名である。
2003年・第54回と2004年・第55回ではそれぞれ翌年の2月11日に総合テレビで再放送が行われた。
紅白放送中、番組の事に関してNHKに電話やFAX、電子メールを送ってくる視聴者もまた多い。関係者が著書「はい、NHKです」で明らかにした所によると、放送開始からしばらくは、いわゆる「応援メッセージ」が多いが、そのうちに出場歌手の人選や選曲、曲順などへのクレームが多くなってくるという。若者ではなく、いわゆる「懐メロ」や演歌しか聞かない年配の方からのクレームが多いそうである。
歌唱中のパフォーマンス [編集]
紅白では歌唱中に視聴者、観客を驚かせるような演出のパフォーマンスがしばしば行われる。小林幸子美川憲一の、ステージと一体化した豪華な衣装は特に有名である(「歴史」の「1970年代 - 1990年代」の節を参照)。
大トリ歌手の歌の場面で天井から大量の紙吹雪が降ることがある。1981年・第32回の大トリを務めた北島三郎の『風雪ながれ旅』では猛吹雪を思わせる大量の紙吹雪が降り、観客席まで入り込む演出があった。
番組が生放送であることを利用し、アーティストが制作側に事前に知らせない不意打ちパフォーマンスを行うこともある。その典型例は2006年・第57回のDJ OZMAのパフォーマンスであり、以後NHKは打ち合わせと著しく異なるパフォーマンスを行わないよう歌番組に出演するアーティストに対し誓約書を書かせることとなった。これまでの主なパフォーマンスとしては、以下が挙げられる(詳しくは当該の回やアーティストの項目を参照)。
1982年・第33回 - サザンオールスターズ桑田佳祐三波春夫をパロディ化した衣装と歌い方をした。「とにかく、受信料は払いましょう! 裏番組(を見たい場合)はビデオで見ましょう!」という発言で、賛否両論が巻き起こった。
1985年・第36回 - 吉川晃司が歌唱中にセットを壊し、終了間際にギターを燃やした。出番が終わっても退場しなかったため、次の河合奈保子は曲の冒頭が歌えない結果となった。この影響により、一時期NHKの番組出演ができなくなってしまった。
1991年・第42回 - とんねるずがパンツ1枚という衣装で登場した。木梨憲武は赤色、石橋貴明は白色に全身を塗っていた。後ろを向くと、背中に「受信料を払おう」と書いてあった。
1992年・第43回 - 本木雅弘が首に白い液体を入れたコンドームの形をした袋をいくつも巻きつけて登場した。さらに、演奏途中では尻を露出した。
2006年・第57回 - DJ OZMAが全身肌色のボディスーツを着て股間の部分にキノコの模型をつけた姿で舞台に登場。女性バックダンサーも同様の格好で全裸に見えたため、「公共放送で、しかも老若男女が視聴する時間帯である事の配慮がない」としてNHKに苦情が殺到した。総合司会の三宅民夫が番組中に「全裸ではない」と説明した。その後、放送倫理・番組向上機構 (BPO) から回答要請を受けた。この影響によりDJ OZMAは活動を一時休止を余儀なくされ、その後も活動に大きな制約が掛かるなど尾を引き続け、これが最終的には2008年の『引退』宣言にまで繋がって行く。
観覧方法 [編集]
NHKホールでの観覧(3,000人)は官製往復はがきのみで応募が受け付けられる。毎年多数の応募が集まるため、抽選となる。
毎年10月中旬頃に応募要項が告知され、11月の初旬頃に応募が締め切られる。
抽選の結果(当落)は返信はがきの裏面に印刷され、12月上旬に応募者のもとに届けられる。
当選通知がそのまま入場整理券となる。整理券(当選はがき)1枚につき2人までNHKホールに入場できる。
※最多の応募総数は2004年・第55回の759,772通(当選倍率:約500倍)
なお、2006年・第57回の募集から、応募資格が次のいずれかに制限される事になった。

NHK受信料を支払いしている者」(銀行口座からの引き落としでも可能)
「新たにNHK受信料を支払いする者」
NHKが定めている受信料免除者」
「上記のいずれかにあてはまる世帯(家族)」
上記はいずれも銀行口座からの引き落としでも可能。
これにより、NHKの受信料を滞納、もしくは不払いの者は応募できなくなる。そのため、往信側のはがきには受信料負担者名の記入が必要となる。これは他の公開収録番組の応募(例 : NHK歌謡コンサート)で実施されていたものと同様である。ただし規則で禁止されている当選はがきの転売行為については全く対策がなされていないため、NHKからして相応しくない人物(例 : 受信料不払い者)や身元確認の取れない不審人物などが入場する可能性もある。

歴史 [編集]
開始当初 - 1960年代 [編集]
第二次世界大戦終結直後の1945年の大晦日に『紅白音楽試合』というラジオ番組が放送された。番組は近藤積(つもる)ディレクターの発案であった。近藤は剣道の紅白試合を念頭に置きつつ、「Speed, Sexuality, Sports」という娯楽の3要素を取り入れた番組を製作しようとした。当初は「紅白歌合戦」の名で放送する予定だったがGHQが「合戦」の語に難色を示したため、「試合」という名称になったものである。音楽試合ということから歌以外の出場者も登場し木琴、マンドリン、尺八による曲を披露した。童謡歌手・川田正子が歌った『汽車ポッポ」は元は『兵隊さんの汽車』という戦時童謡であったが、近藤ディレクターが作詞者・富原薫に依頼して「兵隊さん 兵隊さん 万々歳」を「鉄橋だ 鉄橋だ たのしいな」にするなどの変更を加えた。また、大ヒットした『リンゴの唄』で新人・並木路子がベテラン勢と肩を並べて出場した(川田・並木とも、後の紅白歌合戦には出場していない)。
この事実上の第1回の放送は大晦日22時20分から24時(元日0時)での放送で「年越し番組」(午前0時に除夜の鐘=現在のゆく年くる年の原点を放送)であった。
当初はこの1回だけの放送の予定だったが、あまりの好評から放送の約5年後の1951年正月にタイトルを「紅白歌合戦」と改めて継続されることになる。第1回(1951年)の大トリは藤山一郎で、『長崎の鐘』を歌唱。1953年1月の第3回では、テレビでの実験放送が実施された。第3回までは正月番組として放送されていたが、同じ1953年の12月31日(大晦日)には第4回が放送され、この第4回を機に大晦日の放送が定着した。なお、大晦日の開催を行った理由は、当時、年末年始には大晦日しか大規模な会場が開いていなかったことが一因という。
会場は第1 - 3回までは内幸町にあった旧NHK東京放送会館だった。1953年12月31日・第4回のラジオ・テレビ同時中継開始以降は東京宝塚劇場や日本劇場(日劇)・日比谷公会堂・産経ホール・新宿コマ劇場などを転々としたが、1973年(第24回)以降は渋谷のNHKホールに固定されて今日に至る。
黎明期の紅白は映像はおろか音声すら現存しないとされてきたが、愛知県名古屋市在住の一般の男性が1954年・第5回からラジオ中継の音声を録音していたオープンリールテープが1999年末に発見され、NHKに提供された。この第5回以降、ラジオ中継の音声は、すべて上記の男性から提供された物かどうかは詳細不明だが、1962年・第13回までの全ての回の音声が現存する。一方、現存する写真は1952年(第2回)が最古で、以降、全ての回の写真が現存する。そして、現存する映像は全編だと1963年・第14回が最古で、前年の1962年・第13回もラジオ中継の音声と共に当時のニュースでごく一部が紹介された映像が残っている。なお、1964年・第15回からカラー放送となったが、この回の映像はカラー・白黒とも現存せず、ラジオ中継の音声が現存する。1964年を除いた1963年以降の1960年代は全ての回の映像が現存するが、ほぼ白黒のみ(そのうち、1965年・第16回は欠落部分があるがカラーVTRも、1968年・第19回は保存状態は良くないがカラーフィルムも現存する)である。1970年・第21回はカラーで現存するがフィルム映像で保存状態が良くなく、一部が欠落している。1971年・第22回はカラーのビデオ映像で現存するが保存状態の良くない部分がある。1972年・第23回からNHKがVTRで保存するようになり、この第23回からの現存映像はカラーのビデオ映像で安定している(第23回以降も全ての回の映像が現存する)。
初期の音声の現存しない第1回から第4回と第5回の後半(冒頭から途中までは現存する)に出場した白組男性歌手達のほぼ全員が、音声の現存する第5回前半と第6回以降の出場もあり、その歌手達の音声も確認されており、音声の現存しない間だけの出場となったのはわずかに楠木繁夫(第1回のみ)、竹山逸郎(第2回〜第4回)、岸井明(第4回のみ)の3人だけである。
黎明期(1956年(第7回)頃)までは戦前・戦中派の歌手も常連として名を連ねていたが、1957年(第8回)を以て戦前からの第一人者的存在である藤山一郎が後進に道を譲る形で歌手としての出場を辞退。以降、回を重ねるごとに戦前派の歌手の名は消えてゆく。入れ替わるように、1959年(第10回)では新世代デュオ歌手のザ・ピーナッツが(姉妹または兄弟での出場はこれが初めて)、翌1960年(第11回)では御三家の筆頭として1960年代の歌謡界を牽引するスター歌手となる橋幸夫や、ロカビリーブームの第一人者である平尾昌章が、1961年(第12回)では当時NHKで放送中であった『夢であいましょう』の「今月の歌」コーナーから誕生した「上を向いて歩こう」のヒットにより坂本九がそれぞれ初出場するなど、出場者の顔ぶれにも「世代交代」の色が年々強く反映されるようになってゆく。そして1962年(第13回)では前年まで連続出場していた淡谷のり子、林伊佐緒、伊藤久男が落選、完全に戦後派の歌手のみの顔ぶれとなった。
テレビ視聴率調査(ビデオリサーチによる)が1962年(第13回)から開始される。翌1963年(第14回)において81.4%の視聴率を記録する[10]。これは、紅白史上およびビデオリサーチの全統計史上最高のテレビ視聴率である。
美空ひばりは1963年(第14回)から1972年(第23回)まで、一貫して紅組トリ(ほとんどの回で大トリ)を務めていた。だが翌1973年(第24回)に実弟暴力団絡みの事件で逮捕された事が発端となり全国各地でひばり公演の開催中止が相次ぐなどして人気が急降下し、同年の紅白も落選となった(その後、1979年(第30回)に藤山一郎と共に「30回記念特別ゲスト」扱いで出場、『リンゴ追分』などをメドレーで熱唱した。結局、同回がひばりにとって最後の紅白出場となってしまった)。
1960年代のグループサウンズ全盛時代、長髪のグループは“不良”という意見が根強く加えて当時のNHK会長の意向もあって一切出場できなかった。1967年(第18回)のザ・タイガースはその例である。出演できたのは短髪のジャッキー吉川ブルーコメッツのみであった。時が経ち、演歌歌手やアイドルタレントが長髪にする例も出たため当然ながら長髪は解禁になった。1989年(第40回)にはザ・タイガースが再結成されて出場、1999年(第50回)にはザ・スパイダースの元メンバー3人によって結成されたソン・フィルトルが出場した。
沖縄は米国の施政権下にあったため、1964年(第15回)まではテレビで中継ができなかった。本土と沖縄を結ぶテレビ中継用マイクロケーブルが完成した翌1965年(第16回)からテレビは沖縄テレビ、ラジオはラジオ沖縄がそれぞれスポンサーをつけるという形で放送を開始した。テレビは1968年に沖縄放送協会の中央放送局がテレビ放送を開始するとその年(第19回)から同局での放送となり、1972年の本土復帰で現在のNHK沖縄放送局としての放送となった。ラジオは1972年にNHK沖縄放送局がラジオ放送再開するとその年(第23回)から同局での放送となった。
1960年代後半から1970年代にかけて、ステージの後ろに出場歌手が並んで座る「歌手席」が設けられることが一般的だった。
詳細は以下を参照。
1951年 1952年 1953年1月 1953年12月 1954年 1955年 1956年 1957年 1958年 1959年 1960年 1961年 1962年 1963年 1964年 1965年 1966年 1967年 1968年 1969年
1970年代 - 1990年代 [編集]
1970年代になると新三人娘新御三家、花の高一トリオに代表されるアイドルの台頭、フォークおよびニューミュージック、ロックグループの人気によって、紅白で歌われる曲の質は一変した。「若い人の歌う歌は分からない」と高年層から文句が出るようになったのもこれ以降である。1973年(第24回)に初出場が当確と見られていた西城秀樹が「アクションが激しすぎる」という理由で落選した事は当時の世相を物語る出来事であった。
公共放送であるNHKは番組中で商品名の使用を規制しているが、かつては現在に比べてその規制も厳しく、紅白でも歌詞に関するトラブルが起こった。1973年(第24回)にかぐや姫の「神田川」の歌詞に出てくる「クレパス」(サクラクレパスの商標)を「クレヨン」に変えさせようとした結果、かぐや姫は出場を辞退した。1978年(第29回)にも山口百恵の「プレイバックPart2」の歌詞にある「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤な車」に変えさせようとしたが、実際には原詞通り歌われた(別番組の「レッツゴーヤング」では「真っ赤な車」として歌った)。
2004年にも松平健の「マツケンサンバII」で、松平を示す「マツケン」が規制の対象となった場合の歌詞の扱いについて作詞者・吉峰暁子と協議している旨が一部で報じられたが、実際には規制されなかった。
視聴率は、1970年代から1980年代前半はなお驚異的に高い域にあった。1974年・第25回から9年間白組司会を務めた山川静夫が降板した理由の1つは視聴率の降下であるが、それでも最後の司会の1982年・第33回の視聴率は69.9%(ビデオリサーチ、関東)もあった。とりわけ、都はるみの引退舞台となった1984年・第35回の視聴率は78.1%であり、1960年代に匹敵する数字であった。ところが、以後はテレビの音楽番組が減るなど状況の変化もあって、視聴率が大幅に落ち込むようになった。
1989年・第40回から紅白は2部構成になった。この年に昭和天皇崩御し、「昭和を振り返る」という意味もあったが視聴者の音楽の好みが多様化し、多くの曲を揃えなければ需要に応えられないという視聴率対策の意味合いがあった。この試みは功を奏し、視聴率低落傾向に一応の歯止めがかかった。以後、1990年代は視聴率は50%前後で推移するようになる。
1980年代の紅白はそれまでより話題を集めにくくなっていた。この時期に最も注目されたものの一つが小林幸子の衣装であった。小林の衣装は1980年代半ばから派手になり、1985年・第36回の「夫婦しぐれ」で十二単を、翌1986年・第37回の「別離(わかれ)」ではクレオパトラの衣装を披露した。1991年・第42回の「冬化粧」では鳥となって飛んだ。1990年代になると、小林および美川憲一の豪華衣装対決が注目されるようになる。
1981年・第32回から、これまでホールの後ろから観客席を通って入場行進していた出場者は舞台の後ろから入場行進をするようになった。また応援合戦が少なくなり、出場者の歌手席が初めと終わりを除いて設置されなくなった。1980年代半ばあたりから応援合戦のみは復活したものの、歌手席は初めと終わりにも設置されなくなった。1991年・第42回から入場行進、優勝旗返還、選手宣誓が省略され、またそれまではステージ上やオーケストラピットで演奏していたオーケストラが表舞台に出演しなくなった(現在は別スタジオ(音声専用スタジオであるCR-506スタジオ)にて、生の映像を見ながら演奏している)。このため、現在の紅白は「歌合戦らしさが失われている」とよくいわれる。2002年・第53回ではオーケストラが小規模ではあるが、久しぶりに表舞台で演奏した。
1970年代までオープニングの入場行進で流れていた「乾杯の歌」(別名「スタイン・ソング」。作曲:E・A・フェンスタッド。ドイツ民謡、アメリカ・メイン大学学生歌)が演奏される回が少なくなっていった(1980年代以降、入場行進で流れていたのは第31・32回および36 - 38・40回のみ。なお第47・48回のオープニングでは「乾杯の歌」のアレンジ版、第51回では1フレーズのみ流れ、近年は司会者および出場歌手発表時の記者会見で流れるのみである)。
1990年代には小室哲哉の作詞作曲した楽曲が市場を制覇したが、その影響は紅白にも現れた。例えば1996年(第47回)の出場者のうちTRF安室奈美恵華原朋美、globeらが「小室系」の歌手であった。
1990年代後半を中心にヴィジュアル系バンドのブームが起こり、X JAPANLUNA SEAGLAY・L'Arc〜en〜Cielらが出場した。また、J-POPの歌手も比較的に出演へ積極的であったこともあり視聴率は50%台をキープする安定期に入った。
詳細は、以下を参照。
1970年 1971年 1972年 1973年 1974年 1975年 1976年 1977年 1978年 1979年 1980年 1981年 1982年 1983年 1984年 1985年 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年 1999年
2000年代 - [編集]
21世紀の紅白は国民の生活様態の多様化などに加えてBSでも見られることなどから、地上波放送の視聴率が減少傾向にある。紅白の出場依頼を断る歌手も依然として多い。特に2000年11月にGLAYが年越しライブを優先するため紅白を辞退したことは話題となり、「GLAY紅白辞退」のニュースは新聞紙紙面のトップを飾った。その他にも紅白出演が何度も望まれていた宇多田ヒカルの「紅白を見たことない」発言が物議を醸したこともあった。そのため、全盛期を過ぎていたり、CD売り上げや絶対的な知名度があるとはいえないような歌手が多く出演するようになり、視聴率は再び近年40%前後へと低下している。
近年は白組歌手が大トリに起用されることが多く、それが白組が連勝を続ける原因となっているため、「勝敗の均等性を図るために、紅組歌手を大トリに起用すべき」との意見が多い。
2002年・第53回以降、演歌歌手の出演数が半分以下になったため、演歌ファンの中には演歌や懐メロ中心の裏番組であるテレビ東京の『年忘れにっぽんの歌』を見る人も増えている(BSジャパンでも同時放送されているため日本全国で視聴可能)。演歌歌手も『年忘れにっぽんの歌』への出演に目標を変える傾向が強くなっている。
比較的キャリアを積み人気も一定以上になった歌手はもはや紅白に関心を示さず、自身が主催する「年越しライブ」を行うことや『COUNTDOWN JAPAN』等の年越しイベントへの参加も増えつつある。J-POPの歌手も紅白を避け、フジテレビ系『FNS歌謡祭』やテレビ朝日系『ミュージックステーションスーパーライブ』、TBS系『CDTV年越しプレミアライブ』などの年末音楽番組への出演を選択する傾向が高まっている。
一方でモーニング娘。などハロー!プロジェクトのメンバー、浜崎あゆみ大塚愛倖田來未らエイベックス勢、嵐などジャニーズ事務所所属のアーティスト、aiko中島美嘉絢香コブクロAKB48など紅白出場に積極的な歌手や芸能事務所も少なからず存在している。演歌歌手は紅白に出るか出ないかで翌年の営業(コンサートなど)が大きく変わることから、「紅白に出たい」という人はなお多い。さらに中島みゆき松任谷由実など大物歌手が初出場するなど、大晦日の一大イベントとしての紅白の意味はなお失われていない。
SMAPは2003年・第54回に大トリを務めた。グループとしては史上初、J-POPアーティストとしては、1978年(第29回)の沢田研二以来25年ぶりだった。しかし、翌2004年・第55回には出場を辞退し、その年の紅白の平均視聴率は過去最低を記録した。そして2005年・第56回には返り咲き出場し、2度目の大トリを努め、視聴率上昇に大きく貢献した。
個人のスケジュールの都合やイメージ戦略により会場以外の場所から中継出演する歌手も多くなっており、紅白の重鎮的存在である和田アキ子北島三郎が苦言を述べている(中継で出演する事で自身の歌のステージ以外のリハーサル(オープニング・エンディング・ショーコーナー等)への参加の必要がなくなるため)。
2001年・第52回から2004年・第55回までは、当時NHK会長だった海老沢勝二の「NHK色を強めたい」との強い意向により同局アナウンサーが全ての司会を担当した。
2004年には紅白も担当したNHKプロデューサーが5千万円近い制作費を不正支出していたことが明るみに出て、NHKは激しい批判にさらされることになった。紅白のあり方についても見直しが提起され、出場歌手選考の透明感を出すことを目的に「紅白に出場してほしい歌手」と題された世論調査が実施された。ただ、歌手からの反発もあり、翌2005年・第56回には視聴者から紅白で聞きたい歌を募ったアンケート・『スキウタ紅白みんなでアンケート〜』が実施された。しかし、こちらも組織票が多く寄せられるなど、トラブルがあり、1年限りで廃止となった。
2006年以降の元日、総合テレビでは紅白終了の40分後に紅白の常連だったさだまさしが司会の生放送番組『年の初めはさだまさし』が放送されている。さだ以外の出場歌手の中には、このスタジオに登場する者もいる。また、さだはこの中で爆弾発言をすることがあり、紅白の視聴者を他局へ逃げさせない工夫となっている。
2007年以降は紅組・白組いずれにも属さない「特別枠」が新設された。
2007年以降は出場歌手がおこなうアトラクションが廃止され、歌重視のシンプルな構成になっている。
2007年・第58回から2009年・第60回記念までの3年計画「歌力(うたぢから)」の一環で2007年はクイズ特番『クイズ紅白検定』が放送された。
詳細は、以下を参照。
2000年 2001年 2002年 2003年 2004年 2005年 2006年 2007年 2008年 2009年
審査方法の歴史 [編集]
? - 1962年 審査員が紅白に塗り分けた団扇の優勢だと思う方をステージ上に向けた数の多かったチームが優勝。
1963年・1964年 各地方放送局のアナウンサーが地方審査員のポイントを公表。加えて、審査委員長のNHK芸能局長がステージ上で特別審査員のポイントを追加、公表し優勝チームを発表。会場の電光掲示板にも表示される。
1965年 - 1968年 特別審査員が宝箱にボールを入れ、両軍司会者がステージ袖に向かってボールを投げ、ボールの数の多いチームが優勝。
1969年 - 1980年 得点集計センターのオペレーターが電話で地域代表が優勢と判断したチームを聞き、両チームの得点を集計する。その後、特別審査員がスイッチで1ポイントずつ点数を入れ、地域代表の審査結果と合計した点数を電光掲示板に表示し、点数の多かったチームが優勝。
1981年から客席審査員として会場の観客全員も審査を開始。観客が優勢と判断した色を団扇で示し、双眼鏡を持った日本野鳥の会が数える風景は恒例となった(1986 - 91年は行われず)。団扇による得票数は、その年のそろ盤日本一が暗算にて計算。団扇の得票数をボールの個数に置き換え、特別審査員のボールの数と合わせて、紅白それぞれの箱に加えられたボールを両軍の代表者が客席に向かって投げる。ボールの個数の多かったチームが優勝。
なお、日本野鳥の会がこれを担当したのは1981 - 85年と1992年のみであり、1993 - 2002年は麻布大学野鳥研究部が担当している。日本野鳥の会及び麻布大学野鳥研究部によると、紅白用にわざわざスケジュールを空けているという。
2002年、2003年には客席審査員(2002年は観客の一部、2003年は観客全員)がボールを使う投票方式となった。これは、NHK総合テレビの番組『爆笑オンエアバトル』の方式によるものである(詳細は爆笑オンエアバトル#審査方法を参照)。
また2002年からはデジタル放送(2002年からはBSデジタル放送、2003年からは地上デジタル放送でも)の双方向機能を利用したお茶の間審査員による投票が行われるようになった(リモコンで紅組の場合は赤ボタン。白組の場合は青ボタンを押して投票。)。
申し込みの際、デジタル総合テレビとデジタル衛星ハイビジョンが両方受信できる場合はどちらか一方のチャンネルのデータ放送で申し込みすればデジタル総合テレビ・デジタル衛星ハイビジョンのどちらでも双方向通信による投票が可能である(受信機1台に付き、1回の申し込みで可)。地上デジタル放送が受信できない地域ではデジタル衛星ハイビジョンのデータ放送からの申し込みとなる。
2005年には審査員の投票総数で勝敗を競う方式に変更された。ゲスト審査員10名と「デジタルTV審査員」と新設された「ケータイ審査員」(抽選で選ばれた10,000名)に加え、2年ぶりに復活する会場審査(3,000名程度)を加えた人数で勝敗を競う。これは不祥事に伴う信頼回復策の一環として視聴者の意見を重視してイメージアップを図ることが目的だったという。また、「デジタルTV審査員」と「ケータイ審査員」への応募者の中から抽選で各10名、計20名が「ふるさと審査員」としてNHKホールに招待された。会場審査はゲスト審査員・ふるさと審査員も含め、専用の紅白の団扇をステージ上のレーダーに向ける「ポップジャム」のブレイクレーダー方式が用いられた。
2006年からワンセグ放送の双方向機能による「ワンセグ審査員」がスタート。「ケータイ審査員」と同様抽選で選ばれ、この回はそれぞれ15,000名に増員、「ふるさと審査員」も30名に増員されるが、ボールを使う投票方式に戻され、特別審査員は1人1個、それ以外は得票数を数個のボールに置き換える形となった。
中間審査では「ケータイ審査員」と「デジタルTV審査員」+「ワンセグ審査員」で各1個ずつ。
最終審査では「会場審査員」、「ケータイ審査員」、「デジタルTV審査員」+「ワンセグ審査員」で各2個ずつとゲスト審査員10名(1名につき1個)を加え、中間審査の分を合わせるとボールの数は合計18個となった。この関係で状況によっては(通常の大会ではこのボールが奇数になるためにありえなかった)引き分けによる両軍優勝の可能性もあった。
「ケータイ審査員」は抽選となったが、「ワンセグ審査員」は対応機種が少数派のためか締め切りを過ぎても定員に達せず、放送当日まで募集を行った。
2007年は「ケータイ審査員」が50,000名に増員、「ワンセグ審査員」は無制限となり、審査方法は再び審査員の投票総数で勝敗を競う方式になった。これには中間審査の票数も加算される。
中間審査は前年までの1回から2回に増える(投票開始時間は20:00頃、21:15頃、23:35頃。投票可能時間は約3分)。
審査結果発表は例年のボールを使う方式ではなく、東京タワーのライトアップの色が紅か白に変わる事で発表(通常の照明を消した後に紅か白を点灯する)。
2008年以降もほぼ同様の審査方式であるが中間審査は1回のみとなり、結果発表はステージ上のLEDパネルに映し出す形をとっている。
各回の概要 [編集]
第60回を終えた時点での通算成績は、紅組28勝・白組32勝で白組がリードしている。第60回まで白組が5連勝しており、これが現在まででの最多連勝記録である。

回数 放送日 紅組司会 白組司会 総合司会 勝 平均視聴率
第1回 1951年1月3日 加藤道子 藤倉修一 田辺正晴 白 記録なし
第2回 1952年1月3日 丹下キヨ子
第3回 1953年1月2日 本田寿賀 宮田輝 志村正順
第4回 1953年12月31日 水の江滝子 高橋圭三 北出清五郎
第5回 1954年12月31日 福士夏江 石井鐘三郎 紅
第6回 1955年12月31日 宮田輝 紅 (5−4)
第7回 1956年12月31日 白
第8回 1957年12月31日 水の江滝子 紅 (7−4)
第9回 1958年12月31日 黒柳徹子 紅 (7−4)
第10回 1959年12月31日 中村メイコ 紅 (7−4)
第11回 1960年12月31日 白
第12回 1961年12月31日 穂坂俊明 白
第13回 1962年12月31日 森光子 宮田輝 石井鐘三郎 白 80.4%
第14回 1963年12月31日 江利チエミ 紅 81.4%
第15回 1964年12月31日 白 72.0%
第16回 1965年12月31日 林美智子 白 78.1%
第17回 1966年12月31日 ペギー葉山 紅 74.0% 
第18回 1967年12月31日 九重佑三子 紅 76.7%
第19回 1968年12月31日 水前寺清子 坂本九 宮田輝 白 76.9%
第20回 1969年12月31日 伊東ゆかり 紅 69.7%
第21回 1970年12月31日 美空ひばり 宮田輝 北出清五郎 紅 77.0%
第22回 1971年12月31日 水前寺清子 鈴木文弥 白 78.1%
第23回 1972年12月31日 佐良直美 山川静夫 紅 80.6%
第24回 1973年12月31日 水前寺清子 紅 75.8%
第25回 1974年12月31日 佐良直美 山川静夫 土門正夫 中江陽三 紅 74.8%
第26回 1975年12月31日 相川浩 白 72.0%
第27回 1976年12月31日 紅 74.6%
第28回 1977年12月31日 白 77.0%
第29回 1978年12月31日 森光子 白 72.2%
第30回 1979年12月31日 水前寺清子 中江陽三 紅 77.0%
第31回 1980年12月31日 黒柳徹子 紅 71.1%
第32回 1981年12月31日 生方惠一 白 (22-11) 74.9%
第33回 1982年12月31日 紅 (19-16) 69.9%
第34回 1983年12月31日 鈴木健二 タモリ 白 (19-10) 74.2%
第35回 1984年12月31日 森光子 生方惠一 紅 (31-2) 78.1%
第36回 1985年12月31日 森昌子 千田正穂 紅 (22-11) 66.0%
第37回 1986年12月31日 目加田褚子 斉藤由貴 千田正穂 加山雄三 吉川精一 白 59.4%
第38回 1987年12月31日 和田アキ子 加山雄三 紅 (18-9) 55.2%
第39回 1988年12月31日 杉浦圭子 白 (19-8) 53.9%
第40回 1989年12月31日 三田佳子 武田鉄矢 松平定知 紅 (20-7) 1部 38.5%2部 47.0%
第41回 1990年12月31日 西田敏行 白 (13-4) 1部 30.6%2部 51.5%
第42回 1991年12月31日 浅野ゆう子 堺正章 山川静夫 紅 (8-7) 1部 34.9%2部 51.5%
第43回 1992年12月31日 石田ひかり 白 (15-2) 1部 40.2%2部 55.2%
第44回 1993年12月31日 森田美由紀 白 (21-6) 1部 42.4%2部 50.1%
第45回 1994年12月31日 上沼恵美子 古舘伊知郎 宮川泰夫 紅 (9−8) 1部 40.1%2部 51.5%
第46回 1995年12月31日 宮本隆治草野満代 白 (13−4) 1部 44.9%2部 50.4%
第47回 1996年12月31日 松たか子 白 (9−4) 1部 41.6%2部 53.9%
第48回 1997年12月31日 和田アキ子 中居正広 宮本隆治 白 (9−4) 1部 40.2%2部 57.2%
第49回 1998年12月31日 久保純子 紅 (9−4) 1部 45.4%2部 57.2%
第50回 1999年12月31日 中村勘九郎 白 (7−6) 1部 45.8%2部 50.8%
第51回 2000年12月31日 和泉元彌 紅 (9−4) 1部 39.2%2部 48.4%
第52回 2001年12月31日 有働由美子 阿部渉 三宅民夫 白 (9−4) 1部 38.1%2部 48.5%
第53回 2002年12月31日 紅 (9−6) 1部 37.1%2部 47.3%
第54回 2003年12月31日 有働由美子膳場貴子 阿部渉高山哲哉 武内陶子 白 (15−0) 1部 35.5%2部 45.9%
第55回 2004年12月31日 小野文惠 阿部渉 堀尾正明 紅 (8−5) 1部 30.8%2部 39.3%
第56回 2005年12月31日 仲間由紀恵 山本耕史 みのもんた山根基世 白 1部 35.4%
2部 42.9%
第57回 2006年12月31日 中居正広 三宅民夫黒崎めぐみ 白 (13−5) 前半 30.6%後半 39.8%
第58回 2007年12月31日 中居正広 笑福亭鶴瓶 松本和也住吉美紀 白 前半 32.8%後半39.5%
第59回 2008年12月31日 仲間由紀恵 中居正広 松本和也小野文惠 白 前半 35.7%後半42.1%
第60回 2009年12月31日 阿部渉 白 前半 37.1%後半 40.8%

※視聴率は関東地区・ビデオリサーチ調べ。第1 - 12回の視聴率はビデオリサーチ設立前につき記録なし。[13]
一部の回の優勝チームに付記された括弧内の数字は、最終審査結果の票数。
総合司会のうち第18回までと第25回の土門・中江、第34回のタモリ、第45回の宮川アナの名義は「進行役」。
前年優勝の紅組司会者が翌年も紅組司会をした場合、連続優勝できないというジンクスがある。過去に宮田アナ(男性)・中村・江利・佐良・黒柳・和田・三田・上沼・久保・有働が紅組優勝の翌年も連続で紅組司会を行っているが、すべて敗れている(佐良・黒柳は2度のチャンスがあったが2回とも失敗)。しかし、連続ではないケースで、水の江の2連勝がある。また、ジンクスとしては他にも女性アナウンサーが総合司会を担当すると必ず紅組が敗れるとのものや、放送年か放送前年に大河ドラマ連続テレビ小説に主演・出演した女優・タレントが紅組司会をすると敗れるとのものもある。
第56回については当初は紅白別の司会者は設定せず、上記の4人によるグループ司会で進行すると発表されたが、実際の放送では仲間が紅組歌手、山本が主に白組歌手の曲を中心に司会(エンディング時の優勝旗授与も山本が優勝旗を受け取った)、みのは実質上生放送のすべての進行を統括する総合司会的な役割、山根は進行役的役割という形で役割分担がなされた。上記の表では実質的な役割に従って氏名を記載した。
歴代トリ歌手とその曲目 [編集]
色つきの枠が大トリ。( )は通算出場回数、[ ]は通算トリ回数を示す。

回数 年 紅組トリ 白組トリ
歌手 曲目 歌手 曲目
第1回 1951年 渡辺はま子(初) [初] 桑港のチャイナタウン 藤山一郎(初) [初] 長崎の鐘
第2回 1952年 渡辺はま子(2) [2] 火の鳥 藤山一郎(2) [2] オリンピックの歌
第3回 1953年
1月 笠置シヅ子(2) [初] ホームラン・ブギ 灰田勝彦(2) [初] 野球小僧
第4回 1953年
12月 淡谷のり子(初) [初] アデュー 藤山一郎(4) [3] 丘は花ざかり
第5回 1954年 渡辺はま子(4) [3] 東京の薔薇 霧島昇(3) [初] 石狩エレジー
第6回 1955年 二葉あき子(6) [初] バラのルンバ 藤山一郎(6) [4] ニコライの鐘
第7回 1956年 笠置シヅ子(4) [2] ヘイ・ヘイ・ブギ 灰田勝彦(4) [2] 白銀の山小舎で
第8回 1957年 美空ひばり(2) [初] 長崎の蝶々さん 三橋美智也(2) [初] リンゴ花咲く故郷へ
第9回 1958年 美空ひばり(3) [2] 白いランチで十四ノット 三橋美智也(3) [2] 赤い夕陽の故郷
第10回 1959年 美空ひばり(4) [3] 御存知弁天小僧 春日八郎(5) [初] 東京の蟻
第11回 1960年 島倉千代子(4) [初] 他国の雨 三橋美智也(5) [3] 達者でナ
第12回 1961年 島倉千代子(5) [2] 襟裳岬 三波春夫(4) [初] 文左たから船
第13回 1962年 島倉千代子(6) [3] さよならとさよなら 三橋美智也(7) [4] 星屑の街
第14回 1963年 美空ひばり(8) [4] 哀愁出船 三波春夫(6) [2] 佐渡の恋唄
第15回 1964年 美空ひばり(9) [5] 柔 三波春夫(7) [3] 俵星玄蕃
第16回 1965年 美空ひばり(10) [6] 柔 橋幸夫(6) [初] あの娘と僕
(スイム・スイム・スイム)
第17回 1966年 美空ひばり(11) [7] 悲しい酒 三波春夫(8) [4] 紀伊國屋分左衛門
第18回 1967年 美空ひばり(12) [8] 芸道一代 三波春夫(9) [5] 赤垣源蔵
第19回 1968年 美空ひばり(13) [9] 熱祷(いのり) 橋幸夫(9) [2] 赤い夕陽の三度笠
第20回 1969年 美空ひばり(14) [10] 別れてもありがとう 森進一(2) [初] 港町ブルース
第21回 1970年 美空ひばり(15) [11] 人生将棋 森進一(3) [2] 銀座の女
第22回 1971年 美空ひばり(16) [12] この道をゆく 森進一(4) [3] おふくろさん
第23回 1972年 美空ひばり(17) [13] ある女の詩 北島三郎(10) [初] 冬の宿
第24回 1973年 島倉千代子(17) [4」 からたち日記 北島三郎(11) [2] 帰ろかな
第25回 1974年 島倉千代子(18) [5] 襟裳岬 森進一(7) [4] 襟裳岬
第26回 1975年 島倉千代子(19) [6] 悲しみの宿 五木ひろし(5) [初] 千曲川
第27回 1976年 都はるみ(12) [初] 北の宿から 五木ひろし(6) [2] 愛の始発
第28回 1977年 八代亜紀(5) [初] おんな港町 五木ひろし(7) [3] 灯りが欲しい
第29回 1978年 山口百恵(5)[初] プレイバックPart2 沢田研二(6) [初] LOVE (抱きしめたい)
第30回 1979年 八代亜紀(7) [2] 舟唄 五木ひろし(9) [4] おまえとふたり
第31回 1980年 八代亜紀(8) [3] 雨の慕情 五木ひろし(10) [5] ふたりの夜明け
第32回 1981年 森昌子(9) [初] 哀しみ本線日本海 北島三郎(19) [3] 風雪ながれ旅
第33回 1982年 都はるみ(18) [2] 涙の連絡船 森進一(15) [5] 影を慕いて
第34回 1983年 水前寺清子(19) [初] あさくさ物語 細川たかし(9) [初] 矢切の渡し
第35回 1984都はるみ(20) [3] 夫婦坂 森進一(17) [6] 北の螢
第36回 1985年 森昌子(13) [2] 愛傷歌 森進一(18) [7] 女もよう
第37回 1986年 石川さゆり(9) [初] 天城越え 森進一(19) [8] ゆうすげの恋
第38回 1987年 和田アキ子(11) [初] 抱擁 五木ひろし(17) [6] 追憶
第39回 1988年 小林幸子(10) [初] 雪椿 北島三郎(25) [4] 年輪
第40回 1989年 石川さゆり(12) [2] 風の盆恋歌 北島三郎(26) [5] 夜汽車
第41回 1990年 都はるみ(22) [4] 千年の古都 森進一(23) [9] おふくろさん
第42回 1991年 和田アキ子(15) [2] あの鐘を鳴らすのはあなた 谷村新司(5) [初] 昴−すばる−
第43回 1992年 由紀さおり(13) [初] 赤とんぼ〜どこかへ帰ろう 北島三郎(29) [6] 帰ろかな
第44回 1993年 石川さゆり(16) [3] 津軽海峡・冬景色 北島三郎(30) [7] まつり
第45回 1994年 都はるみ(26) [5] 古都逍遥 五木ひろし(24) [7] 気笛
第46回 1995年 和田アキ子(19) [3] もう一度ふたりで歌いたい 細川たかし(21) [2] 望郷じょんから
第47回 1996年 坂本冬美(9) [初] 夜桜お七 北島三郎(33) [8] 風雪ながれ旅
第48回 1997年 安室奈美恵(3) [初] CAN YOU CELEBRATE? 五木ひろし(27) [8] 千曲川
第49回 1998年 和田アキ子(22) [4] 今あなたにうたいたい 五木ひろし(28) [9] 酒ひとり
第50回 1999年 和田アキ子(23) [5] あの鐘を鳴らすのはあなた 北島三郎(36) [9] まつり
第51回 2000年 天童よしみ(5) [初] 道頓堀人情 五木ひろし(30) [10] 山河
第52回 2001年 和田アキ子(25) [6] 夢 北島三郎(38) [10] 山
第53回 2002年 石川さゆり(25) [4] 天城越え 五木ひろし(32) [11] おふくろの子守唄
第54回 2003年 天童よしみ(8) [2] 美しい昔 SMAP(12) [初] 世界に一つだけの花
第55回 2004年 小林幸子(26) [2] 雪椿 五木ひろし(34) [12] 雪燃えて
第56回 2005年 天童よしみ(10) [3] 川の流れのように SMAP(13) [2] Triangle
第57回 2006年 川中美幸(19) [初] ふたり酒 北島三郎(43) [11] まつり
第58回 2007年 石川さゆり(30) [5] 津軽海峡・冬景色 五木ひろし(37) [13] 契り
第59回 2008年 和田アキ子(32) [7] 夢 氷川きよし(9) [初] きよしのズンドコ節
第60回 2009年 DREAMS COME TRUE(13) [初] その先へ 北島三郎(46) [12] まつり

紅白歌合戦の主な記録 [編集]
詳細は「NHK紅白歌合戦の主要記録一覧」を参照

裏番組 [編集]
民放各社は、「牙城」を崩そうと、毎年様々な番組を用意し、挑んでいる。しかし、ビデオ・リサーチ社の調査で、2008年度上期の“通常”平均視聴率で、NHKが民放トップのフジテレビを抑えたことから、各社は戦略の練り直しを迫られている。

このうち、紅白と連動・共存を図ろうとしているのはテレビ東京である。夕方から21時台にかけて『年忘れにっぽんの歌』を編成。紅白出場歌手の中には梯子をする人も少なくないが、出番については事前に両者で何らかの調整が行われている模様で、放送時間が丸被りとならないことや、日本レコード大賞の日程が変わったことから、大きな混乱は近年起こっていない。また、紅白終盤からは『東急ジルベスターコンサート第2部』を中継している。

他の各局は完全に敵対心をむき出しにする。レコード大賞が30日となって以降、TBSはプロ格闘技中継を放送している。日本テレビ、フジテレビ及びテレビ朝日は、通常放送しているバラエティ番組の派生特別企画を中心に編成している。

同じコンセプトを持つ企画など [編集]
NTV紅白歌のベストテン
青白歌合戦 - SPACE SHOWER TVが主催し、2004年12月15日に東京体育館で開催したイベント。
「○○紅白歌合戦」というタイトルのNHK紅白歌合戦のパロディについては、紅白歌合戦 (曖昧さ回避)を参照。
ブラジルでは日系人移民が多いということもあり、毎年年末に日系人市民による「日系移民紅白歌合戦」が開催されている。NHKも開催に協力している。[14]
脚注 [編集]
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^ デジタル総合・デジタル衛星第2・BS hiは5.1chサラウンドステレオ。
^ デジタル総合を除く。
^ 宮川は蛍の光の指揮以外にも1972年・第23回でザ・ピーナッツのさよならは突然にの指揮を飛び入りで担当していた。
^ X JAPANヴィジュアル系に分類した場合。
^ “嵐が初紅白「ジャニーズ2枠」の慣例突破”. ニッカンスポーツ. (2009-11-23). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20091123-568721.html 2009年11月24日 閲覧。
^ “嵐10周年で初出場「最高のステージに」”. デイリースポーツ. (2009-11-24). http://www.daily.co.jp/gossip/article/2009/11/24/0002536254.shtml 2009年11月24日 閲覧。
^ “NHKと相思相愛!ジャニーズ“枠固定”撤廃へ”. スポーツニッポン. (2010-1-1)
^ “ポップス軽視の紅白に疑問!布施明が突然の卒業宣言”. スポーツニッポン. (2009-12-30). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/12/30/07.html 2009年12月30日 閲覧。
^ “紅白常連組の辞退…耐えられなかった落選への恐怖”. スポーツニッポン. (2009-12-30). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/12/30/08.html 2009年12月30日 閲覧。
^ a b c NHK総合紅白歌合戦」の視聴率、ビデオリサーチ、2008年1月17日
^ 『日経エンタテインメント!』2004年3月号、122頁。
^ 『週刊朝日』2006年12月29日号
^ NHK総合紅白歌合戦」|ビデオリサーチ
^ 2009年12月30日特番「紅白歌合戦AtoZ」でその模様が紹介された。
出典・参考文献 [編集]
NHKウイークリーステラ臨時増刊『紅白50回〜栄光と感動の全記録〜』(NHKサービスセンター 2000年1月)
50回を記念して出版されたカラー版のムック。紅白歌合戦の公式記録的な性格を持つ。
合田道人『怪物番組紅白歌合戦の真実」(幻冬舎 2004年11月 ISBN 4-344-00702-6)
1945年 - 2004年の紅白歌合戦について詳細に言及(1963年 - 2004年は視聴者として、特に1980年代以降は候補希望者として)。
関連項目 [編集]
日本放送協会NHK
NHKホール
日本レコード大賞
アップダウンクイズ
今夜も生でさだまさし(新春生放送 年の初めはさだまさし
K-1
[隠す]表・話・編・歴NHK紅白歌合戦

1950年代 1951 | 1952 | 1953 1月・12月 | 1954 | 1955 | 1956 | 1957 | 1958 | 1959

1960年代 1960 | 1961 | 1962 | 1963 | 1964 | 1965 | 1966 | 1967 | 1968 | 1969

1970年代 1970 | 1971 | 1972 | 1973 | 1974 | 1975 | 1976 | 1977 | 1978 | 1979

1980年代 1980 | 1981 | 1982 | 1983 | 1984 | 1985 | 1986 | 1987 | 1988 | 1989

1990年代 1990 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999

2000年代 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 | 2008 | 2009

関連項目 NHK紅白歌合戦の主要記録一覧




外部リンク [編集]
NHK紅白歌合戦」公式サイト
NHK紅白歌合戦」メイキングインタビュー(テレビコ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/NHK%E7%B4%85%E7%99%BD%E6%AD%8C%E5%90%88%E6%88%A6」より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | NHK紅白歌合戦 | 年末年始特番

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最終更新 2010年3月14日 (日) 10:03