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チャールズ・ダーウィン

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チャールズ・ダーウィン

卓越した地質学者・生物学者で、種の形成理論を構築。
人物情報
誕生 1809年2月12日
イングランドシュロップシャー
シュルーズベリー 、Mount House
死没 1882年4月19日
イングランド、ケント州 ダウン

居住国 イングランド
国籍 英国
信仰 英国国教会
家族はユニテリアン、
1851年以降不可知論。
学問
研究分野 博物学、自然科学
研究機関 ロンドン地理学協会
母校 エディンバラ大学
ケンブリッジ大学
主な業績 『種の起源
『ビーグル号航海記』
自然選択説
主な受賞歴 Royal Medal (1853)
ウォラストン・メダル (1859)
コプリ・メダル (1864)
表・話・編・歴
チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin, 1809年2月12日 - 1882年4月19日)はイギリスの自然科学者。 全ての生物種が共通の祖先から長い時間をかけて、彼が自然選択と呼んだプロセスを通して進化したことを明らかにした。進化の事実は存命中に科学界と一般大衆に受け入れられた一方で、自然選択の理論が進化の主要な原動力と見なされるようになったのは1930年代であり、自然選択説は現在でも進化生物学の基盤の一つである[1]。また彼の科学的な発見は修正を施されながら生物多様性に一貫した理論的説明を与え、現代生物学の基盤をなしている[2]。

目次 [非表示]
1 概要
2 経歴
2.1 生い立ち
2.2 幼少期
2.3 ビーグル号航海
2.4 帰国後
2.5 結婚
2.6 自然選択説への到達
2.7 ダーウィンの進化論
2.7.1 自然選択説
2.7.2 獲得形質遺伝の支持とパンゲン説の提唱
2.7.3 性選択に対する見解
2.8 自然選択説の公表
2.9 『種の起源』への反響
2.10 人間の由来と性選択
2.11 その他の研究
2.12 晩年
3 家族と子孫
4 社会思想
4.1 優生学
4.2 社会ダーウィニズム
5 宗教観
6 記念
6.1 2009年記念
7 著作
7.1 主な邦訳著書
8 脚注
9 関連項目
10 参考文献
11 外部リンク

概要 [編集]
エジンバラ大学で医学、ケンブリッジ大学キリスト教神学を学んでいるときに自然史への興味を育んだ。5年にわたるビーグル号での航海は彼をチャールズ・ライエルの斉一説を理論と観察によって支持した著名な地理学者として確立した。またその航海記は人気作家としての地位を固めた。ビーグル号航海で集めた野生動物と化石の地理的分布は彼を悩ませ、種の変化の調査へと導いた。そして1838年自然選択説を思いついた。そのアイディアは親しい数人の博物学者と議論されたが、より広範な研究に時間をかける必要があると考えた。

理論を書き上げようとしていた1858年にアルフレッド・ラッセル・ウォレスから同じアイディアを述べた小論を受け取った。二人の小論は即座に共同発表された。1859年の著書『種の起源』は自然の多様性のもっとも有力な科学的説明として進化の理論を確立した。『人間の由来と性に関連した選択』、続く『人及び動物の表情について』では人類の進化と性選択について論じた。植物に関する研究は一連の書籍として出版され、最後の研究はミミズが土壌に与える影響について論じている。

ダーウィンの卓越性はみとめられ、19世紀において王族以外で国葬が執り行われた五人のうちの一人となった。ウェストミンスター寺院でジョン・ハーシェルアイザック・ニュートンの隣に埋葬されている。2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で第4位となった。

経歴 [編集]
生い立ち [編集]

7歳のチャールズ・ダーウィン。母が死去する一年前。チャールズ・ダーウィンは、裕福な医師で投資家だった父ロバート・ウォーリング・ダーウィンと母スザンナの間に、6人兄弟の5番目の子供(次男)として、イングランドシュロップシャーシュルーズベリーで生まれた。父方の祖父は高名な医師・博物学者であるエラズマス・ダーウィンであり、母方の祖父は陶芸家・企業家であるジョサイア・ウェッジウッドである。

祖父同士は博物学者として、父ロバートと叔父ジョサイア2世(母スザンナの弟)は実業家としてダーウィン家とウェッジウッド家は親密であり、両親など数組の婚姻が結ばれ、近しい姻戚関係にあった。母スザンナはダーウィンが8歳の時に没し、キャロラインら3人の姉が母親代わりをつとめた。ロバートは思いやり深かったが、妻の死によって厳格さを増し、子供たちには厳しく接することもあった。

ウェッジウッド家はダーウィンの誕生当時は既に英国国教会を受け入れていたが、両家とも元々は主にユニテリアン教会の信徒だった。ダーウィン家はホイッグ党の急進的でリベラルな考え方に同調していた。一族の男性は密かな自由思想家で非宗教的だったが、父ロバートはしきたりに従って子どもたちに英国国教会で洗礼を受けさせた。しかしダーウィンは兄妹や母と供にユニテリアンの教会へ通った。

幼少期 [編集]
子供のころから博物学的趣味を好み、8歳の時には植物・貝殻・鉱物の収集を行っていた[3]。父ロバートは祖父とは異なり博物学に興味はなかったが、園芸が趣味だったため幼少のダーウィンは自分の小さな庭を与えられていた。また祖父と同名の兄エラズマスは化学実験に没頭しておりダーウィンに手伝わせた。ダーウィンは兄をラズと呼んで慕った。

1818年からシュルーズベリーの寄宿舎校で学んだ後、16歳(1825年)の時に父の医業を助けるため親元を離れエディンバラ大学で医学を学ぶ。しかし、人間の流血沙汰が苦手で、また昆虫採集などを通じて実体験に即した自然界の多様性に魅せられていたことから、麻酔がまだ導入されていない時代の外科手術や、アカデミックな内容の退屈な講義になじめず、1827年に大学を去ることになる。この頃、南米の探検旅行に同行した経験がある黒人の解放奴隷ジョン・エドモンストーンから動物の剥製製作術を学んだ。ダーウィンは彼を「非常に感じが良くて知的な人」と慕った。これは後にビーグル号の航海に参加し生物標本を作る際に役立った。2学年目にはプリニー協会(急進的な唯物論に魅せられた博物学の学生たちのクラブ。古代ローマ博物学者大プリニウスにちなむ)に所属し、海生生物の観察などに従事した。ダーウィンはロバート・グラントの海洋無脊椎動物の生活環と解剖学の研究を手伝った。ある日、グラントはジャン=バティスト・ラマルクの進化思想を称賛した。ダーウィンは驚いたが、その頃祖父の著作を読み類似した概念を、そしてその考えが論争的であることを知っていた。大学の博物学の授業は地質学の火成説と水成説論争などを含んでいたが退屈だった。また植物の分類を学び、当時ヨーロッパで最大のコレクションを誇ったエジンバラ大学博物館で研究を手伝った。

エジンバラ大学で良い結果を残せず、父はダーウィンを牧師とするために1827年ケンブリッジ大学クライスト・カレッジに入れ、神学や古典、数学を学ばせた。ダーウィンは牧師なら空いた時間の多くを博物学に費やすことが出来ると考え父の提案を喜んで受け入れた。しかしケンブリッジ大学でもはとこウィリアム・ダーウィン・フォックスとともに必修ではなかった博物学や昆虫採集に傾倒した。フォックスの紹介で聖職者・博物学者ジョン・スティーブンス・ヘンズローと出会い親しい友人、弟子となった。ダーウィンは学内では、ヘンズローが開設した庭園を二人でよく散歩していたことで知られていた。後にヘンズローとの出会いについて、自分の研究にもっとも強い影響を与えたと振り返っている。また同じく聖職者で地層学者だったアダム・セジウィッグに学び、層序学に並々ならぬ才能を発揮した。同時に当時のダーウィンは神学の権威ウィリアム・ペイリーの『自然神学』を読み、デザイン論(全ての生物は神が天地創造の時点で完璧な形でデザインしたとする説)に納得し信じた。自然哲学の目的は観察を基盤とした帰納的推論によって法則を理解することだと記述したジョン・ハーシェルの新しい本や、アレキサンダーフンボルトの科学的探検旅行の本を読んだ。彼らの「燃える熱意」に刺激され、熱帯で博物学を学ぶために卒業のあと同輩たちとテネリフェへ旅行する計画を立て、その準備としてセジウィッグのウェールズでの地層調査に加わった。

この時代には音楽や、後に残酷だからとやめることになる狩猟を趣味としていた。また一年目の1827年夏にはジョサイア2世やその娘で将来の妻になるエマ・ウェッジウッドヨーロッパ大陸に旅行し、パリに数週間滞在している。これは最初で最後のヨーロッパ大陸滞在だった。

1831年に中の上の成績でケンブリッジ大学を卒業した。多くの科学史家はこの両大学時代をダーウィンの人生の中でも特に重要な時期だったと見ているが、本人はのちの回想録で「学問的にはケンブリッジ大学も(エジンバラ大学も)得る物は何もなかった」と述べている。

ビーグル号航海 [編集]

若き日のダーウィン。航海から帰国後、30歳前後と見られる。1831年ケンブリッジ大学を卒業