【大和 (戦艦)】

【検索の達人 ■■■】■■■に文字を記入!
高大連携情報誌 調べもの新聞
【ブログ=穴埋め・論述問題】


【大和 (戦艦)】

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索

艦歴
計画 第三次海軍軍備補充計画
起工 1937年11月4日
進水 1940年8月8日
就役 1941年12月16日
その後 1945年4月7日沈没
除籍 1945年8月31日
建造所 呉海軍工廠
建造費 約137,802,000円
1936年3月 艦政本部試算
沈没位置 座標: 北緯30度43分17秒 東経128度04分00秒 / 北緯30.72139度 東経128.066667度 / 30.72139; 128.066667
性能諸元
排水量 基準 65,000トン
公試 69,000トン
満載 72,809トン
全長 263.0m
水線長 256.0m
全幅 38.9m
公試吃水 10.4m
主機関 ロ号艦本式缶12缶
艦本式タービン4基4軸
153,553馬力
最大速力 27.46ノット(公試成績)
航続距離 16ノットで7,200海里(13,334km)
乗員 竣工時:2,500名
最終時:3,332名
兵装
(新造時) 40口径46cm3連装砲塔:3基
60口径15.5cm3連装砲塔:4基
40口径12.7cm連装高角砲:6基
25mm3連装機銃:8基
13mm連装機銃:2基
兵装
(最終時) 40口径46cm3連装砲塔:3基
60口径15.5cm3連装砲塔:2基
40口径12.7cm連装高角砲:12基
25mm3連装機銃:52基
25mm単装機銃:6基
13mm連装機銃:2基
装甲 舷側 410mm
甲板 200mm〜230mm
主砲防盾 650mm
艦橋500mm
搭載機 6機(カタパルト2基)

大和(やまと)は、大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦、大和型戦艦の一番艦。「戦艦大和」と呼ばれることも多い。しばしば大艦巨砲主義の象徴とされる。

目次 [非表示]
1 概要
2 沿革
2.1 建造
2.2 戦歴
2.3 最期
2.4 海上特攻の経緯
2.5 現在
3 歴代艦長
4 フィクションの中の大和
5 主要参考文献
5.1 図録
5.2 通史
5.3 建造記録
5.4 図面集
5.5 写真集
5.6 戦記
5.7 証言集
5.8 海底探査記録
6 同型艦
7 関連項目
8 脚注
9 外部リンク

概要 [編集]
大和・武蔵に共通する特徴については大和型戦艦を参照のこと

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年12月に就役し、やがて連合艦隊旗艦となった。この任は司令部設備に改良が施された同型艦 武蔵が就役(1942年8月)するまで継続された。1945年4月7日、天一号作戦において米軍機動部隊の延べ1,000機以上の航空機による猛攻撃を受け(魚雷14本、大型爆弾3発、小型爆弾多数)、坊ノ岬沖で撃沈された。

当時の日本の最高技術を結集し建造され、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した、桁外れの戦艦であった。建造期間の短縮、作業の高効率化を目指し採用されたブロック工法は大成功を納め、この大和型建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業の生産方式のもととなり重要な意味をなす(大和型戦艦を参照)。

艦名「大和」は、旧国名大和国に由来する。日本の中心地として日本の代名詞ともなっている大和を冠されたことに、本艦にかかった期待の度合いが見て取れる(同様の名称として扶桑型戦艦がある)。正式な呼称は“軍艦大和”である。

日本海軍が太平洋戦争初期のマレー沖海戦真珠湾攻撃で、それまで海戦の主力であり国家の戦力の象徴でもあった戦艦を航空攻撃によって撃沈したことで、海戦における主力は戦艦から航空母艦とその艦載機を中心とした機動部隊に移っていった。 大艦巨砲主義の精髄たる本艦は、そのような歴史の推移にあって、戦艦としては世界でトップレベルの戦闘能力を持ちながらそれを発揮する場がほとんど無いまま最期を迎えた「悲劇の軍艦」である。

沿革 [編集]
建造 [編集]

海軍工廠で最終艤装中の大和(1941年9月20日)大和(計画名A140F5)は1937年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠の造船ドック〔造船船渠〕で起工された。その乾ドックは大和建造の為に拡張されて、長さが314m、幅45m、深さ11mとなった。アメリカやイギリスに本型を超越する戦艦を作らせぬ為に建造は秘密裏に進められ、当初は海軍の中でも一部に知らされているだけだったと言われている。

機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根、周囲には干した和棕櫚(わじゅろ。干した物は主に「ほうき」に使われる。ちなみに、そのドックの近所の全ての民家から干した和棕櫚の葉が無くなり、大騒ぎになったという逸話が残っている)がかけられた。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は少ししか知ることができないようになっていた。造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下におかれ、歩哨が要所を警戒していた。建造ドッグを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。

そして1940年8月8日進水、「天皇陛下進水式御臨席」の噂もあったが、結局は海軍大臣代理により、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦はあえて臨席している面々に聞こえないように小声で「大和」と命名された(なお軍艦の艦名に関しては海軍省の提出した二つの候補から天皇が選定した一つをその艦に命名するのが慣例である)。もっとも、進水といっても、武蔵の様に陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は注水済みの造船ドックから曳船によって引き出す形で行われた。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、世界一の戦艦の進水式としては非常に寂しいものに思われたという。1941年12月7日公試終了、同年12月16日就役。

また、大和には当時の最新技術が多数使用されていた。球状艦首(バルバス・バウ)による速度の増加、煙突などにおける蜂の巣状の装甲などである。その他、観測用の望遠鏡や測距儀も非常に巨大なものが採用され、進水時には世界最大、最精鋭の艦型であった。しかしレーダー(八木アンテナ装備)等の電子兵装については、1943年7月の改装において搭載したものの、技術的な遅れからアメリカ海軍やイギリス海軍のみならず、同盟国のドイツ海軍の最新の戦艦には及ばなかった。

戦歴 [編集]

ブルネイから出港し、レイテ湾へ向かう艦隊
(右から長門・武蔵・大和…1944年10月)
レイテ沖海戦での大和を真上から見たところ。
米機の空襲の中、回避行動を取る大和。
シブヤン海海戦で第一番砲塔に直撃弾を受ける大和(1944年10月24日)
サマール沖で米空母艦隊を砲撃する大和。後方は妙高重巡洋艦
サマール沖で米機から見た大和。後方に金剛型戦艦。1942年2月12日に、連合艦隊旗艦となる。同5月29日、ミッドウェー作戦により柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため海戦の戦闘には参加しなかった。同6月14日柱島に帰投。

機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく、空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度とは直接関係はなく、編成上は戦艦が主力の扱いであったためである。

アメリカ海軍側はミッドウェー海戦の報を受け、戦艦「テネシー」、「ミシシッピ」、「アイダホ」、「ニューメキシコ」、護衛空母ロングアイランド」を中心とする第1任務部隊をサンフランシスコより出撃させている。この部隊はハワイ西北1,200浬で戦艦「コロラド」、「メリーランド」と合同し、日本艦隊の西海岸攻撃に備えており、この時点では空母部隊を前衛として戦艦を運用するという思想には両軍とも差がなかった(日本艦隊が空母喪失後もあくまでミッドウェー攻略に固執した場合、アメリカ戦艦6隻は同島防衛に動く可能性もあった)。

1942年8月17日、ソロモン方面の支援のため柱島を出航。同8月28日、トラック入港。1943年2月11日、連合艦隊旗艦任務を大和の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型2番艦「武蔵」に移譲。5月8日トラック出航、柱島へ向かう。呉では対空兵器を増強し、再びトラックに向かったのは8月16日。3ヶ月前より戦局は悪化し、ソロモン諸島では激戦が行われていたが、本艦はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加せず、居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄された。10月中旬マーシャル群島への出撃命令が下る。アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港。

1943年12月25日、トラック島西方180海里でアメリカ海軍の潜水艦「スケート」より攻撃を受け、3番砲塔右舷に1本被雷する。破口はバルジのみであったにもかかわらず、爆発の衝撃で舷側水線鋼鈑背後の肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁に破口を生じ機械室と火薬庫に想定外の浸水被害を受けた。敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった。トラックで応急修理を受けた後、内地に帰還。この欠陥については修理時に、水密隔壁を新たに追加し浸水を極限する改修を受けている。

1944年6月15日、マリアナ沖海戦に出撃。機動部隊同士による決戦が繰り広げられる中、アメリカ軍攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である。しかし同じ海戦において、周囲艦艇とともに日本側第一次攻撃隊をアメリカ軍機と誤認し高角砲などで射撃、数機を撃墜するという失態も犯している。

同10月22日、レイテ沖海戦に参加。第二艦隊第一戦隊としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指し出撃。23日早朝に旗艦愛宕が潜水艦に撃沈されたため、大和座乗の第一戦隊司令官の宇垣纒中将が一時指揮を執った。夕方に栗田健男中将が移乗し第二艦隊旗艦となった。24日、シブヤン海で空襲を受け、僚艦武蔵を失う。25日、サマール島沖にて米護衛空母艦隊と交戦、主砲弾を104発発射したが、この時の戦果に付いては諸説ある。

有名なものに、アメリカの護衛空母ガンビア・ベイ」に大和の主砲弾一発が命中して大火災を起こしたと証言する意見もあるが、ただこれは主に当時、乗員であった者からの言葉や日記などから世間に広まったという傾向が強い(重巡利根艦長黛大佐は、著書で戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかったと、強く反論している)。また、米側記録にも該当する大火災発生の事実はなく、同艦は0801に重巡の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている。大和が空母を砲撃したのは0709までの間であり、大和主砲弾が命中した可能性はほとんどない。「当たって欲しい>当たったはず」という精神作用が、防御煙幕や至近弾を火災の煙と誤認させたものと思われる。

本海戦において、栗田艦隊の将兵は(至近砲戦に移行してからでさえ)護衛空母正規空母の識別すらできない精神状態にあったことは有名で、その目撃証言の信頼性はきわめて低い。但し、32,000mの遠距離から放った砲撃はその第一斉射から目標を挟叉し、対するアメリカ側から「砲術士官の望みえる最高の弾着」との評価を受けている。

大和に突入しようとしたフレッチャー級駆逐艦「ジョンストン」を副砲の射撃により撃沈したともいう証言もある。アメリカ側には0725-0730頃、米駆逐艦「ホーエル」「ジョンストン」が戦艦からの主砲・副砲弾を受けたという記録が残っているが、アメリカ側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛は、0725にスコールに入ったために射撃を中止しており、同型艦の榛名もこの時刻には射撃していないことから、0727の主砲射撃で「巡洋艦轟沈」を報じた大和の射撃が命中した可能性もある。ただし、この時期には、七戦隊の日本重巡各艦も「ホーエル」「ジョンストン」を砲撃していたため、これも確実なものとは言えない。

いずれにせよ、この砲撃でアメリ駆逐艦が致命傷を負った形跡はないことから、命中弾があったとしても「戦艦の主砲弾で」艦橋上のMk37射撃指揮装置を吹き飛ばされた「ホーエル」ではないかと言われている。「ジョンストン」も、十戦隊の軽巡「矢矧」以下が止めを刺しているため、大和が敵艦を直接葬った可能性はない。なおこの海戦で、大和が電測射撃で重巡鳥海を味方撃ちしたという説もあるが、鳥海及び筑摩が損傷した時期には、日本戦艦がこの両艦を誤射するような射撃機会を得ていないため、これは誤解である。

レイテ沖海戦では往復の航程でアメリカ軍の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障は無かった。砲塔を直撃した爆弾は、装甲があまりにも厚かったため、天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡ってはがしただけで跳ね返され、空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た(第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う)。また前甲板の爆弾は鋲座庫付近に水面下の破孔を生じ、約4,000トンもの浸水が発生した。

レイテ湾の入り口まで来たが、結局栗田長官は近隣に米機動部隊が存在するとの誤報を受けて反転を命じ、突入することなく引き返している。引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍機が攻撃にきた。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した。

最期 [編集]
詳細は「坊ノ岬沖海戦」を参照


最終時の大和。米側資料で、最新の研究考証に準じているが、一番砲塔脇と、砲塔上の機銃形状が日本側考証と異なる。
3月19日の呉空襲で、敵機の攻撃を回避する大和。呉に帰港した後の1945年3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。呉から徳山沖に退避したため、目立った被害はなかった。

同年3月28日、「次期作戦」に向け大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられたが、米軍機の空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、第二艦隊を徳山沖に回航させた。

3月30日に、アメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥る。

4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」

4月6日、「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任される。第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」る為にと神重徳大佐(終戦直後、飛行機事故で水死)の発案が唐突に実施されたものであった。一般には片道分の燃料で特攻したとされるが、燃料タンクの底にあった油や、南号作戦で必死に持ち帰った重油などをかき集めて3往復半分の燃料を積んでいたともされている(下記も参照)。

第二艦隊は大和以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(冬月、涼月(防空駆逐艦))、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞))で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧(カヤ)、槇(マキ))の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。
アメリカ軍偵察機 (F-13) により上空から撮影された出撃直後の大和の写真が2006年7月にアメリカにて発見された。当時の大和の兵装状態は未だ確定的な証拠のある資料はなく、この写真が大和最終時兵装状態の確定に繋がると期待されている。
天一号作戦(菊水作戦、坊ノ岬沖海戦も参照のこと)の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和し、もし沖縄にたどり着ければ東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し乗員は陸戦隊として敵陣突入させるというものであった。アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、作戦の意義はまさに一億総特攻の魁(さきがけ)であった。しかも戦争末期には日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近ではアメリカの潜水艦「スレッドフィン」に行動を察知され、特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡されたという。
当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた。しかし「大和」が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈するということが目的でありそのために手段は選ぶべきではないと考えマーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じた。しかし、スプルーアンスが戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャーが先に攻撃部隊を送り込んでしまった、という説がある。
九州近海までは、陸上基地から発進した航空機が艦隊の護衛を行ったが小規模な編成であり、見送りに近いものであった。またそれも4月7日昼前に帰還してしまう。入れ替わりアメリカ軍の偵察機が艦隊に張り付くようになる。

敵機の攻撃に曝される大和。幅広い航跡が目を引く。
米軍航空隊の爆撃で炎上する大和(1945年4月7日)
ヘルダイバーの爆撃から逃れようとする大和(左)。右に秋月型駆逐艦が見える。
傾斜した大和を守るべく、防空戦を続ける冬月の長10センチ砲が火を吹いたところ。
相次ぐ被弾での浸水により、速力が低下した大和(右)。
横転し、大爆発を起こした瞬間。
大爆発して沈没(4月7日14時23分、北緯30度22分東経128度4分)
大和の爆煙
靖国神社に展示されている大和46cm主砲弾の実物大の模型;形状は正確ではない。4月7日12時32分、鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。8分後、艦爆数機が急降下、1機撃墜、中型爆弾(250キロ爆弾と思われる)2発を被弾。後部射撃指揮所が損壊した(この時に副砲も損傷したという説があるが、後年の海底調査ではその形跡は見られない。また、一発が大和の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある)。特に後部射撃指揮所、つまり後部艦橋はオノで叩き割られたように跡形もなく破壊された。建造当初から弱点として問題視されたこの後橋及び、副砲周辺部の命中弾による火災は沈没時まで消火されずに燃え続けた(攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している)。

以後14時17分まで、アメリカ軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾やロケット弾を装備して出撃した。攻撃機の中には、大和とアメリカ軍空母の間を3往復したものもいた。

主な被害状況は以下のとおり。

12時45分 左舷前部に魚雷1本命中。
13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障(1345中央に復元固定)。
13時44分 左舷中部に魚雷2本命中。
14時00分 中型爆弾3発命中。
14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中。
14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。
14時17分 左舷中部に魚雷1本命中(右舷後部という意見もある)、傾斜増す。
14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。総員上甲板(総員退去用意)を発令。
大和は爆弾の直撃を受け、艦内では火災をおこし艦上では対空兵器が破壊された。米軍の高性能爆薬を搭載した魚雷による効果的な左舷集中攻撃の結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。後部注排水制御室の破壊により、注排水が困難となった。また副舵が故障し、舵を切った状態で固定され、直進ないし左旋回のみしか出来なくなった。このことに関して、傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと錯覚する生存者もいる。このことにより、米軍は容易に大和に魚雷を命中させられるようになったが、その後副舵は中央に固定された。傾斜復旧のために、右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令(いわゆる「無断注水」だったという説もある)が出されているが、機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にあるキングストン弁を人力で開く必要があり、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。

大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンからの艦載機による右舷後部への魚雷攻撃で、大和の艦底を攻撃するために、意図的に深度を深く調節された魚雷が使用された。そのためこの魚雷が命中した時は、艦橋でも「今の魚雷は見えなかった…」という士官の報告がある。またそれまでの魚雷命中とは違い、下から突き上げられた後に「艦全体がブルブル振動して、グッグッと沈下した…」という証言もある。すでに左の舷側は海水に洗われる状態であった。

最後に魚雷が命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増し、3分後に総員退去が命ぜられた。しかし、艦内の大半のものに「総員上甲板」は知られず、総員上甲板(総員退去)の発令3分後には大傾斜赤い艦腹があらわになった。艦橋トップの測距所からは、煙突にごうごうと海水が流れ込み、そこに兵員も吸い込まれるのが見られた。主砲射撃手の村田元輝兵曹長も「最期まで艦橋最上部の射撃指揮所におり艦と運命を共にするつもりであったが、部下と退艦するしないで押し問答となり、このままでは部下も巻き添えにしてしまうと思い指揮所の外にでたところ、普段は目もくらむ高さの指揮所のはずが、すぐそこに海面があり、あっというまにザブンとそのまま海に漬かった」と後述している。

また、随伴した駆逐艦からは大和が操艦不能になっているのが観察され、一部駆逐艦との衝突の危機もあったが駆逐艦側が回避した。その後急に傾斜が激しくなり、お椀をひっくりかえすようにゴロンと横転したと思うと、海面が盛り上がって大爆発したという記載も残っている。

横転(または転覆)は14時23分。大爆発を起こして艦体は2つに分断されて海底に沈んだ。爆発の原因は船体の分断箇所と、脱落した主砲塔の損傷の程度より、艦内炎上で拡がった火炎により、2番主砲塔のバイタルパート部の火薬庫が誘爆したためとされる[1]。転覆によって主砲弾が誘爆したという説もある。火災説では転覆前に爆発しても然るべきであり、転覆直後に爆発するというのは偶然の一致にしては出来すぎである。また転覆によって火炎の向きが変って主砲弾が加熱されるようになって爆発したという考え方もあるが、加熱には時間が必要であるし、第一転覆直後に大和の主砲塔は3つとも船体から脱落して海底に落下している事が戦後の海底調査で判明しているので、そのような時間はないことになる。爆発は沈没してからという意見と、沈没前という意見と両方あるが、転覆後という点では一致している。戦後の海底調査で、機関部の艦底にも大きな損傷穴があることが判明し、転覆時にボイラーも爆発したという説もあるが、沈没前に命中した魚雷が傾斜した艦底に命中した穴である可能性も指摘されている。

大和沈没により、古村啓蔵少将は一時は作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は作戦中止を司令部に要求し、生存者を救助のうえ帰途についた。

同型艦の「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾し、炎上しながら9時間程耐えたのに比べ「大和」はいささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中したためと、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めたことと、武蔵に比べ米軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたためである。アメリカ軍航空隊は「武蔵」一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型の攻略法を考えていた。その方法とは、片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようというもので、実際に第一波攻撃では「大和」は魚雷を被弾していない(1発被弾したという資料もある)。また、船体の傾斜が主砲は5度、副砲は10度、高角砲は15度以上になると射撃不能とすることもできた。しかしながら、米軍側と日本側の戦闘記録による命中数と被弾数には大きな食い違いがあり、魚雷に至っては米軍側は一説では30本以上の命中を主張しており、その戦闘の激しさを物語っている。
菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか積んでいなかったとされていたが、実際には約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいた。重油タンクの底にある計量不能重油を各所からかき集めたもの、及び海上護衛総隊割り当て分7,000トンの内4,000トンを第2艦隊向けに割り振ったもので、実際にはその量だと全速力でも3往復はできたという。とはいえ、空襲への回避運動や敵艦隊との水上戦が発生したなら、長時間に及ぶ高速での迂回航行を想定する必要があったし、また戦術的な擬装航路の実行なども合わせて考えるなら、決して余裕のある燃料量ではなかったとも言われている。
うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円分ほど)。また出撃に先立ち(5日午後)、傷病者と若干の老兵、兵学校卒業直後の53名の士官候補生が退艦させられた。
戦死者は伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,740名、生存者269名[2]または276名[3]。
戦艦大和の沈没によって連合艦隊は、完全に洋上行動能力を失い、その後艦隊として出撃することはなかった。1945年4月25日、連合艦隊だけでなく海上護衛総隊及び各鎮守府をも指揮する海軍総隊が設けられ、終戦まで海上護衛及び各特攻作戦の指揮を執る。

海上特攻の経緯 [編集]
戦艦大和』(児島襄著)によると、4月2日矢矧での第二艦隊の幕僚会議では次の3案が検討された。

航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する。
好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する。
揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする。
この3案に対し古村少将、山本大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた。 しかし突然4月4日神重徳大佐から電話により特攻作戦が内示された。 この命令は連合艦隊司令長官軍令部総長の決裁後に軍令部、連合艦隊の幹部に通告されたため反論しようがなかった。

特攻命令を伝達に来た聯合艦隊参謀長草鹿龍之介中将に対し伊藤中将が納得せず、無駄死にとの反論を続けた。自身も作戦に疑問を持っていた草鹿中将が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上中佐が口を開いた「要するに、一億総特攻のさきがけになっていただきたい、これが本作戦の眼目であります」その言葉に伊藤中将もついに頷いたという。

『戦藻録』(宇垣纏中将日誌)によれば、及川古志郎軍令部総長が「菊水一号作戦」を天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との御下問があり、「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったということである。

現在 [編集]
現在の大和は、北緯30度43分、東経128度04分、長崎県男女群島女島南方176km、水深345mの地点に沈没している。艦体は1番副砲跡を境に前後2つに分かれ、艦首は北西(方位310度)に、艦尾部は東(方位90度)方向を向いている。右舷を下にした艦首部より1番副砲(0 - 110番フレーム付近)までの原型をとどめた部分、転覆した状態の3番主砲塔基部付近より艦尾までの原型をとどめた後部(175 - 246番フレーム付近)が約170mの間に、原型をとどめぬ艦中央部は一つの起伏となり艦尾艦首の70m南に転覆した状態で、根元から折れた艦橋は艦首の下敷きとなり、各々半分泥に埋まった状態で沈んでいる。

3基の主砲塔と2基の副砲塔はすべて転覆時に脱落しており、砲塔の天井を下にして海底に塔のように構造物が同一線上に直立している。これは主砲塔の脱落が転覆直後の、船体爆発前に起こったことを意味している。主砲砲身自体は着底の衝撃によって泥に深く埋もれており観察できていない。また2番主砲塔のみ基部が酷く破損しており、沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠といわれている。1番と3番主砲塔には著しい損壊は認められていない。副砲塔は砲身が視認されており、損傷もない(NHK特集『海底の大和、巨大戦艦四十年目の鎮魂』にて放送)。

4本のスクリューのうち、3本は船体に無傷で付いているが、1本は脱落して、海底に突き刺さっている。沈没時の爆発でスクリュー軸が折れて、脱落したものと思われる。舵には損傷はなく、正中の位置となっている。艦首部分には左右に貫通している魚雷命中穴があり、その他にも多数の破孔があるようだが、詳細な位置は一般には公開されていない。技術的に深海にある6万トンの艦船をサルベージすることは困難であり、全体の引揚げには数百億円かかるといわれている。2009年1月になって大和の母港であった日本放送協会広島支局・呉商工会議所中国新聞等広島の経済界・呉市海事歴史科学館が中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指している。

20世紀末[要出典]になって、「大和型戦艦」と思われる2隻の戦艦が動く映像が発見されたが、後にこれは東京湾での降伏調印式へと向かうアイオワ型戦艦の戦艦アイオワと戦艦ミズーリの物だと分かった。

歴代艦長 [編集]
(階級はいずれも大佐)

宮里秀徳:1941年9月5日〜(艤装員長)
高柳儀八:1941年11月1日〜
松田千秋:1942年12月17日〜
大野竹二:1943年9月7日〜
森下信衛:1944年1月25日〜
有賀幸作:1944年11月25日〜
フィクションの中の大和 [編集]
詳細は「大和型戦艦に関連する作品の一覧」を参照

主要参考文献 [編集]
図録 [編集]
呉市海事歴史科学館大和ミュージアム常設展示図録』(ザメディアジョン、2005年) ISBN 4-902024-59-4
通史 [編集]
児島襄『戦艦大和』(文春文庫、1986年)上巻 ISBN 4167141051 下巻 ISBN 416714106X
渡部真一『戦艦大和 びっくりデータ99の謎』(二見文庫、1994年) ISBN 4576941178
平間洋一 編『戦艦大和』(講談社選書メチエ、2003年) ISBN 4062582694
原勝洋『戦艦大和のすべて』(インデックス・コミュニケーションズ、2005年) ISBN 4757302894
建造記録 [編集]
原勝洋 編『戦艦大和建造秘録 完全復刻 資料・写真集』(KKベストセラーズ、1999年) ISBN 4584170762
御田重宝『戦艦大和の建造』(徳間文庫、1999年) ISBN 4198911525
前間孝則戦艦大和誕生』(講談社+α文庫、1999年)上巻 ISBN 4062564017 下巻 ISBN 4062564025
図面集 [編集]
日本造船学会 編『昭和造船史 別冊 日本海軍艦艇図面集』(原書房明治百年史叢書第242巻、1978年) ISBN 4562003367
岡本好司『スーパーイラストレーション 戦艦大和』(モデルアート社1993年9月号臨時増刊 No.414)
ヤヌス・シコルスキー 著\原勝洋 訳、監修『戦艦大和図面集』(光人社、1998年) ISBN 4769808453
雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第1巻 戦艦I』(光人社、1989年) ISBN 4769804512
写真集 [編集]
原勝洋 編『戦艦「大和」 永遠なれ!』(KKベストセラーズ、2005年) ISBN 4584170975
戦記 [編集]
吉田満戦艦大和』(角川文庫、1968年) ISBN 4041281016
吉田満戦艦大和ノ最期』(創元社、1952年)、(講談社文芸文庫、1994年) ISBN 4061962876
ノンフィクション、戦争文学の古典と位置付けられている。しかしその内容の真実性については一部疑問も投げかけられている(駆逐艦短艇指揮官の行動など)。
吉田満・原勝洋 編『ドキュメント戦艦大和』(文春文庫新装版、2005年)ISBN 4167349043
原勝洋『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』(アリアドネ企画、2004年) ISBN 4384033893
レイテ沖海戦における大和艦隊の実態、巻末付九四式四十糎砲塔兵器学教科書。
阿部三郎『特攻大和艦隊 帝国海軍の栄光をかけた十隻の明暗』(光人社NF文庫、2005年) ISBN 4769824580
原勝洋『真相・戦艦大和ノ最期 写真と新資料で解明!』(KKベストセラーズ、2003年) ISBN 4584187576
辺見じゅん『決定版 男たちの大和』(角川春樹事務所ハルキ文庫、2004年)上巻 ISBN 4758431248 下巻 ISBN 4758431256
証言集 [編集]
原勝洋 編『伝承・戦艦大和』(光人社、1993年) 上巻 ISBN 4769806663、下巻 ISBN 4769806671
栗原俊雄『戦艦大和 生還者たちの証言から』(岩波新書、2007年) ISBN 9784004310884
海底探査記録 [編集]
辺見じゅん・原勝洋 編『戦艦大和発見』(角川春樹事務所ハルキ文庫、2004年) ISBN 475843123X
テレビ朝日出版部 編『戦艦大和 海底探査全記録』(テレビ朝日事業局出版部、1999年) ISBN 4881312367
同型艦 [編集]
武蔵 [III]
110号艦(→航空母艦信濃
111号艦(未成)



関連項目 [編集]
大日本帝国海軍艦艇一覧
大和 (初代)
坊ノ岬沖海戦
平賀譲
牧野茂
松本喜太郎
吉田満
岩本徹三
土井勝
呉市
大和神社
奈良県天理市にある神社。大和の艦内には同神社の分霊が祀られており、その縁で現在、坊ノ岬沖海戦における大和と第二艦隊の全戦没者3721名が祀られている。
呉市海事歴史科学館
愛称“大和ミュージアム”、1/10スケールの戦艦大和が再現されている。
大和型 (架空戦記)
宇宙戦艦ヤマト
愛知縣護國神社
境内に戦艦大和記念碑があり、記念碑の主体は大和型戦艦の主砲弾の実物である。
脚注 [編集]
^ 大和が最後に爆発した際の火柱やキノコ雲は、遙か鹿児島でも確認できたという。だが、視認距離を求める公式L1(km)=116.34×(√ho(km)+√ht(km))(←L1は水平線上の最大視認距離、ho は水面からの眼高。ht は目標の高さ。坊の岬最高点は96.9m 爆煙が雲底到達した高度は1,000m)に当てはめてみると視認距離は152.6kmとなり、計算の結果は213キロ以上も離れた鹿児島県からは確認できないこととなる。例外として、山などの高いところに上がれば視認は可能となるが、当日の悪天候の気象条件から見て、鹿児島県内の山などからこれを確認するのは至難のわざとなるだろう。
^ 『戦史叢書』「沖縄方面海軍作戦」による。
^ 『大和ミュージアム常設展示図録』による。
[ヘルプ]



外部リンク [編集]
ウィキメディア・コモンズには、大和 (戦艦)に関連するマルチメディアがあります。呉市海事歴史科学館(愛称:大和ミュージアム
WW2DB: 戦艦大和 (英語)
戦艦大和 Tabular Record of Movement (英語)
Naval Historical Center (英語)
[隠す]表・話・編・歴大日本帝国海軍の戦艦・巡洋戦艦

富士型 富士 | 八島

島型 敷島 | 朝日 | 初瀬 | 三笠

香取型 香取 | 鹿島

薩摩型 薩摩 | 安芸

筑波型 筑波 | 生駒

鞍馬型 鞍馬 | 伊吹

河内型 河内 | 摂津

金剛型 金剛 | 比叡 | 榛名 | 霧島

扶桑型 扶桑 | 山城

伊勢型 伊勢 | 日向

長門長門 | 陸奥

大和型 大和 | 武蔵

戦利艦 鎮遠 | 石見 | 肥前 | 丹後 | 壱岐 | 周防 | 相模 | トゥルグット・レイス | ナッサウ | オルデンブルク

未成艦 加賀型戦艦 | 天城型巡洋戦艦 | 紀伊型戦艦 | 十三号型巡洋戦艦 | 超大和型戦艦

大日本帝国海軍艦艇一覧

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)」より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 日本の戦艦 | 特攻表示本文 ノート 編集 履歴 個人用ツールベータ版を試す ログインまたはアカウント作成 案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
新しいページ
最近の更新
おまかせ表示
練習用ページ
アップロード (ウィキメディア・コモンズ)
ヘルプ
ヘルプ
井戸端
お知らせ
バグの報告
寄付
ウィキペディアに関するお問い合わせ
検索
ツールボックス
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ一覧
印刷用バージョン
この版への固定リンク
この項目を引用する
他の言語
Afrikaans
Български
Català
Česky
Dansk
Deutsch
English
Español
Suomi
Français
Magyar
Bahasa Indonesia
Italiano
Lëtzebuergesch
Bahasa Melayu
Nederlands
‪Norsk (bokmål)‬
Polski
Português
Русский
Slovenčina
Svenska
ไทย
Tiếng Việt
中文

最終更新 2010年3月27日 (土) 11:24