敦煌 (冒頭部分)井上靖/初出「群像」(昭和34・1〜5)趙行徳が進士の試験を受けるために、郷里湖南の田舎から都開封へ上って来たのは、仁宗の天聖四年(西紀一〇二六年)の春のことであった。

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【ブログ=穴埋め・論述問題】

敦煌 (冒頭部分)

井上靖/初出「群像」(昭和34・1〜5)



     第一章

 趙行徳が進士の試験を受けるために、郷里湖南の田舎から都開封へ上って来たのは、仁宗の天聖四年(西紀一〇二六年)の春のことであった。
 時代は世を挙げて官吏万能の時代であった。武人の跋扈を防ぐために文官を重用する政府の方針は、太祖から始まって太宗を経て仁宗に到るまでいささかも変っていなかった。軍部の要所要所へも文官出身の官吏が配されていた。学問を身につけて官吏になることが、身を立てる者の等しく選ぶ道であり、官吏任用試験に合格することが、出世への緒口であったわけである。
 仁宗の前の天子真宗は、自ら「勧学詩」を作って、学問によって登第出身するのが富貴を得る捷径であることを天下に知らしめた。――家を富ますには良田を買うを用いず、書中自ら千鐘の粟あり。居を安んずるには高堂を架すを用いず、書中自ら黄金の屋あり。門を出ずるに人随うなきを恨むなかれ、書中馬有り、多きこと簇のごとし。妻を娶るに良媒なきを恨むなかれ、書中女あり、顔玉のごとし。男児平生の志を遂げんと欲せば、六経勤めて窓前に向って読め。


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現代日本文学史年表