東郷 平八郎=日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人
【東郷平八郎】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
東郷 平八郎
1848年1月27日 -1934年5月30日
渾名 沈黙の提督
海の東郷
東洋のネルソン
生誕地 薩摩国鹿児島郡加治屋町
死没地 東京府東京市麹町区上六番町
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1863年–1913年
最終階級 元帥海軍大将
指揮 舞鶴鎮守府司令長官
第一艦隊司令長官
連合艦隊司令長官
海軍軍令部長
戦闘/作戦 薩英戦争
戊辰戦争
日清戦争
日露戦争
賞罰 従一位・大勲位・功一級・侯爵 ほか
除隊後 東宮御学問所総裁
廟 東郷神社
表・話・編・歴
東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人である。階級位階勲等功級爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。
目次 [非表示]
1 概観
2 生涯
2.1 生い立ち
2.2 イギリス留学
2.3 日清戦争
2.4 日露戦争
2.5 日露戦争後
2.6 晩年
2.7 死去
3 影響
3.1 神格化
3.2 「東郷ビール伝説」
3.3 米海軍での東郷崇拝
4 逸話
4.1 授与された勲章
5 系譜
5.1 系図
5.2 親族
6 東郷を演じた俳優
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
概観 [編集]
明治時代の日本海軍の司令官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、「陸の乃木 海の東郷」と乃木希典陸軍大将と並び称され、日露戦争の英雄として国民の尊敬を集めた[1]。
生涯 [編集]
生い立ち [編集]
弘化4年(1848年)12月22日、薩摩国鹿児島城下の加冶屋町二本松馬場(下加治屋町方限、現鹿児島県立鹿児島中央高校化学講義室付近)に、薩摩藩士・東郷実友と堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれる。幼名は仲五郎、14歳の時元服して平八郎実良と名乗る。慶応3年(1867年)6月に分家して一家を興す。薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦う。体型は小柄ではあるが右写真でも分かるようにハンサムであり、壮年期においては料亭「小松」においては芸者より随分もてたとされる。
イギリス留学 [編集]
留学時の東郷(1877年)明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学する。東郷は当初鉄道技師になることを希望していた。イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学をさせてください」と頼み込んだが色よい返事はもらえなかった。後で東郷は大久保が自分に対して「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」とする感想を他者に漏らしたことを伝え聞いて、自省してその後寡黙に努めた。それが長じて、後年は「沈黙の提督」との評価を得るまでになった。大久保の後西郷隆盛に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定した。東郷の才能を軍人にあると見込んだ西郷の人物眼の確かさをも物語るものであろう。
当初ダートマスの王立海軍兵学校への留学を希望したがイギリス側の事情で許されず、商船学校のウースター協会で学ぶことになる。留学先では「To go、China(=「支那に行け」の意)」とからかわれるなど苦労が多く、おしゃべりだった性格はすっかり無口になってしまったと言われている。しかし宮古湾海戦に参戦していたことを告げると、一躍英雄として扱われることとなった。
この留学の間に国際法を学んだことによって、日清戦争時に防護巡洋艦浪速の艦長として、停船の警告に応じないイギリスの商船「高陞号」を撃沈する(高陞号撃沈事件)にあたって、このことは国際法に違反しない行為であると正しく判断できたのだとされている。さらに、このときの沈着な判断力が、のちに連合艦隊司令長官に人選される要素となった。
帰国途上、西郷隆盛が西南戦争を起こして自害したと現地で知った東郷は、「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。実際、東郷の実兄である小倉壮九郎は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。
日清戦争 [編集]
明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(イギリス船籍の高陞号撃沈事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍する。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加。
日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官となり、明治34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。これは後の対米戦備での位置づけから閑職であったと見なされがちであるが、来る対露戦を想定してロシアのウラジオストク軍港に対峙する形で設置された重要ポストであり、決して閑職ではなかった。但し、東郷自身は中央への異動を希望していたようである。
しかしながら日露開戦前の緊迫時期に海軍首脳の山本権兵衛に呼び戻され、明治36年(1903年)12月に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任する。本来は常備艦隊司令長官である日高壮之丞がそのまま就任するのが筋であったが、山本が我の強い日高を嫌って命令に忠実な東郷を据えたのだといわれる。しかし実際には、日高が健康問題を抱えており指揮が難しい状態であり、当時の将官の中で実戦経験豊富な東郷が至極順当に選ばれたというのが真相であった。またこの時、明治天皇に理由を聞かれた山本は「東郷は運のいい男ですから」と奏したと言われている。
日露戦争 [編集]
連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮をとる東郷、1905年明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦三笠に座乗してロシア東洋艦隊(ロシア第一太平洋艦隊)の基地である旅順港の攻撃(旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。6月6日には大将に昇進する。
そして明治38年(1905年)5月27日に、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」[2]との一報を大本営に打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した[3]。東郷は丁字戦法、その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に勝利を納めた。
この海戦における勝利は、当時ロシアの圧力に苦しんでいたトルコにおいても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった[4]。 その年に同国で生まれた子供たちの中には、トーゴーと名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあった[4]。
日露戦争後 [編集]
日露戦争終了直後、訪問艦にて同盟国のイギリスに渡洋、他の将校や乗組員とともにサッカー(フットボールリーグ、ニューカッスル・ユナイテッドのホームゲーム)を観戦[5]。
明治38年(1905年)から同42年(1909年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任。明治39年(1906年)、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与される。明治40年(1907年)には伯爵を授爵。大正2年(1913年)4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。大正15年(1926年)に大勲位菊花章頸飾を受章。当時の頸飾受章者は皇太子裕仁親王と閑院宮載仁親王だけだった。また、タイム誌の1926年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなった。
晩年 [編集]
妻テツと(1913年)末次信正、加藤寛治らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用し軍政に干渉した。昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場を取ったロンドン軍縮問題[6]はその典型であるが、その他に明治以来の懸案であった、兵科と機関科の処遇格差の是正(一系問題。兵科は機関科に対し処遇・人事・指揮権等全てに優越していた)についても東郷は改革案に反対した。結局、この問題は第二次世界大戦の終戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。
壮年時代はよく遊び、料亭に数日間も居続けたり、鉄砲打ちに出かけたりしたが、晩年は質素倹約を旨とし、趣味といえば盆栽と碁を嗜む程度であった。自ら七輪を用いて、料理をすることもあったという。しかし新聞記者に対し妻が、新婚時代内職して家計を支えたエピソードを話すと、家族に経済的心配を掛けたことはないと激怒した。
死去 [編集]
昭和9年(1934年)、膀胱ガンのため満86歳で死去。死去の前日に侯爵に陞爵した。死去に際しては全国から膨大な数の見舞い状が届けられたが、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載され大きな反響をよんだ。
6月5日に国葬が執り行われた。国葬の際には、イギリス帝国海軍東洋艦隊旗艦の重巡洋艦「ケント」、アメリカ海軍アジア艦隊旗艦の「オーガスタ」をはじめ、フランスとイタリアという当時の「五大国」の艦船をはじめ、オランダや中華民国の艦船が直ちに東京湾を目指して出港。儀仗隊を葬列に参加させ、弔砲を定刻に発砲し、偉大な功績を称えた[7]。
東郷元帥記念公園(東京都千代田区)当時のイギリスでは「東洋のネルソン提督が亡くなった。」、ドイツは「東洋のティルピッツが逝去した。」と自国の海軍の父的人物に準えて、哀悼した。
遺髪はイギリス海軍のホレーショ・ネルソンの遺髪と共に海上自衛隊幹部候補生学校(江田島)に厳重に保管されている。
旧蔵書は、広島県呉市にある海上保安大学校図書館が所蔵する「旧海軍大学校図書」のうちに残る。
私邸跡は東郷元帥記念公園として使用され、現在でも獅子像などが残っている。
影響 [編集]
神格化 [編集]
死後東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(現福津市)に「東郷神社」が建立され神として祭られた。但し東郷自身は生前乃木神社建立の時、将来自身を祭る神社の設立計画を聞いて、「止めて欲しい」と強く懇願したが、結局神社は建立されている。また銅像が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園と鹿児島県鹿児島市の多賀山公園にある。東京都府中市には別荘地に建立された東郷寺があり、桜の名所である。
晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、官制上の権限は無いにもかかわらず軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化していた。海軍省内では伏見宮博恭王軍令部総長とともに「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の障碍とみなされた。井上成美は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた」と述懐したうえで、「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」と語っている。また岡田啓介・米内光政・山本五十六なども、東郷の神格化については否定的な態度をとっている。
エピソードとして、帝国海軍において第一種軍装を詰襟から英国式のダブルに変更する案が出たが、このことを東郷のもとに相談に行くと、「この服(詰襟を指す)で、日本海海戦に勝ちました」との東郷の一言で、変更の話は全く立ち消えになったほどで、海軍内での東郷の発言力の重さは甚大なものであった。
「東郷ビール伝説」 [編集]
「長年ロシアの圧迫を受けてきた北欧諸国では人気絶大で、フィンランドでは東郷の肖像をラベルにしたビールが売られていた」といういわゆる「東郷ビール伝説」があるが、これは1970年から1992年まで製造され2003年に復刻版製造された「提督ビールシリーズ」の一つで、山本五十六や、日露戦争で東郷と戦ったロシアのステパン・マカロフ、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー両提督も同じシリーズのラベルになっており、このビールがフィンランドで特別に東郷平八郎が人気絶大であることを示すわけではない。
東郷のラベルのものは1971年製造開始された。なお現在日本で販売されている「東郷ビール」は、オランダで製造されているプライベートビールに日本の会社がフィンランド「提督ビールシリーズ」で使われた東郷ラベルをつけているものである。
しかし、実際に東郷の名をつけた品々が多く存在するのも事実である。東郷が亡くなった1934年には、ブラジルのカステロエス社が、「東郷へのオマージュ」として『Cigarros Guensui』という銘柄のタバコを販売した。宣伝には日本語で「聖将東郷元帥永久の思ひ出にシガーロス『元帥』を日本の皆様に捧ぐ」と書かれていた。
また、水生昆虫のカワゲラにはトウゴウカワゲラ属(Togoperla )がある。これは、チェコ人昆虫学者のFrant Klapálekが東郷平八郎にちなんで名づけたとされ、他にもオオヤマカワゲラ(大山巌)、ノギカワゲラ(乃木希典)、カミムラカワゲラ(上村彦之丞)と名づけられたカワゲラ属が存在する。
なお生前には、東郷の名を冠した「東郷鋼(はがね)」という鉄鋼製品が作られていた事から、東郷元帥に反発する海軍内の佐官や将官の手で「東郷バカネ」という地口が作られ、流布したという。ただ実際は海外鋼輸入問屋河合鋼鉄のライバル流通が考え出した洒落という説もある。日本の産業界が当時、国産第一を標榜していた背景で考察する事も可能である[8]。
米海軍での東郷崇拝 [編集]
三笠公園内にある東郷平八郎像太平洋戦争時のアメリカ海軍の諸提督の多くは、若き日に東郷と接した事もあり、東郷に対しては英雄として崇拝していた。特にチェスター・ニミッツは、太平洋戦争でアメリカに勝利をもたらしたことで、「トーゴーの血筋はヤマモト(山本五十六)ではなく、ニミッツへと受け継がれた。」とも表現された。ニミッツ本人も東郷への英雄崇拝の念が非常に強く、若い頃に日本に来て東郷と出逢い、話した時の感激を生涯忘れることはなかったという。
第二次世界大戦後、進駐軍によって日本の軍事的モニュメントの撤去作業が行われたが、米国海軍は東郷に関するものには手を触れさせなかった。 ニミッツは後に戦後、荒れ果てた三笠の姿を見て嘆き、修繕する為にポケットマネーを送り、東郷と若い頃への思いを込めて三笠の復興に協力した。
レイモンド・A・スプルーアンスとウィリアム・ハルゼー[9]も、東郷への尊敬の念が強かった。戦争中は「ジャップを殺せ!」と過激な言葉を吐いたハルゼーだったが、東郷と出逢った際には、英雄として東郷を肩車して称えていたという逸話がある。
逸話 [編集]
一般に寡黙、荘重という印象があるが時として軽忽な一面もみせた。晩年学習院に招かれた際、講演中に生徒に「将来は何になりたいか」と質問し「軍人になりたい」と答えた生徒に「軍人になると死ぬぞ」 「なるなら陸軍ではなく海軍に入れ。海軍なら死なないから」と発言し、陸軍大将であり、諧謔のセンスの乏しい乃木希典院長を激昂させ、同時に半ば呆れさせたというエピソードがある。
昭和天皇は学習院時代、院長であった乃木希典については「印象深く、尊敬もしている」と述べているが、東宮御学問所総裁であった東郷については、後年、記者の質問に「何の印象もない」と答えている。
錬度を上げることに熱心で聯合艦隊解散の辞に「百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」という言葉を残している[10]。
ワシントン軍縮条約の結果、主力艦の保有比率が対英米6割と希望の7割より低く抑えられたことに憤激する将官達に向かって、「でも訓練には比率も制限もないでしょう」と諭したと言われる。(伊藤正徳著「連合艦隊の最後」)
東郷は宮古湾海戦にて奮戦、戦死した甲賀源吾を軍人として尊敬していた。また、明治新政府によって逆賊として斬首に処せられた小栗忠順の名誉を後に回復している。日本海海戦でバルチック艦隊を破って後、東京で暮らしていた彼の遺族を私邸に招き、「日本海海戦で勝利を得たのは、(小栗上野介が生前に建造した)横須賀造船所で艦隊の十分な補給と整備を受けることができたからである」と故人の功績を称え、感謝の言葉を惜しまなかったという。
東郷の国葬に併せて英米両国から日本向けに追悼のメッセージがラジオで放送された。イギリスからはボルトン・イヤーズ=モンセル海軍大臣のメッセージが英国放送協会から、アメリカからはウィリアム・スタンドレイ海軍作戦部長のメッセージがNBCからそれぞれ放送されたが、アメリカからの放送では予定より早く終了したため、時間調整に日本の曲として『お江戸日本橋』『かっぽれ』という、おおよそ追悼に似つかわしくない音楽が放送されてしまうというハプニングが起こった。この模様が全国に生中継[要出典]されてしまった日本国内では、アメリカ側の選曲を問題視する声が一部で出たという。
元国際連合事務総長のブトロス・ガリは、日本に来ると必ず東郷神社に参拝した。エジプト出身であるガリは「小さい頃、ものすごく励まされた、心を解放された」と言っている。
日本海海戦の際、旗艦三笠に掲げられた大将旗は1911年に、イギリス国王のジョージ5世の戴冠式に明治天皇の名代、東伏見宮依仁親王に随行して出席した際、かつての留学先だった海員練習船「ウースター」校に寄贈されていた。日本側にこうした経緯を記した記録がなかったため、長らく所在不明となっていたが、2004年東郷神社の松橋暉男宮司が著書の執筆にあたり調査したところ、ウースター校の財産を引き継いでいる財団マリン・ソサエティーが、同時に寄贈された銀杯や東郷元帥の胸像とともに所蔵していることがわかった。神社側が翌年の大祭の際に貸してもらうよう申し入れたところ、無償で永久貸与されることになった。
日本海海戦時カール・ツァイスの双眼鏡を敵の沈没状況や降伏確認に使用した。この双眼鏡は5倍と10倍兼用[要出典]で、発売されて間もない1904年(明治37年)小西本店(現コニカミノルタホールディングス)が輸入したもの。現在は三笠記念館に収蔵されている。
2010年2月16日に放送されたテレビ東京「開運!なんでも鑑定団」には、東郷平八郎が大正天皇から下賜されたという刀が出品され、鑑定額は5000万円と評価された。
薩英戦争の勝利を決めたのは、東郷が受け持っていた青銅砲が撃った砲弾だった。
授与された勲章 [編集]
日本 : 大勲位菊花章頸飾、大勲位菊花大綬章、功一級金鵄勲章、勲一等旭日大綬章
大韓帝国 : 大勲位金尺大綬章
イギリス : メリット勲章、ヴィクトリア一等勲章(Royal Victorian Order)
フランス : レジオンドヌール勲章グラントフィシエ
イタリア : 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章一等
ポーランド : ポーランドリボン勲章一等(en:Order of Polonia Restituta)
ロシア : 聖アンナ勲章一等(en:Order of St. Anna)
スペイン : 海軍有功白色第四級勲章
系譜 [編集]
系図 [編集]
東郷氏:桓武平氏渋谷氏流
丸山徳三郎━━良夫
吉左衛門実友━┳重猗 ┃
┣祐之進(夭折) ┣━━┳良久━━┳龍太
┣小倉壮九郎 ┃ ┗平 ┗将平
┣平八郎━━━━┳彪━━┳一雄━┳喜久子
┗四郎左衛門実武┣實 ┣良子 ┣尚子
┗八千代┗百子 ┗宗子
親族 [編集]
子孫には長男の東郷彪、海軍兵学校40期生で少将になった次男の東郷実、その子で72期生の東郷良一(少尉で重巡洋艦摩耶に乗組み、比島沖海戦で戦死し2階級特進で大尉になった)、曾孫の防衛大学校卒の幹部海上自衛官東郷宏重がいる[11]。係累の東郷良尚は日本ユニセフ協会の副会長である。
東郷を演じた俳優 [編集]
田崎潤 - 『明治天皇と日露大戦争』
三船敏郎 - 『日本海大海戦』、『日本海大海戦 海ゆかば』
芦田伸介 - 『海は甦える』
渡辺文雄 - 『二百三高地 愛は死にますか』
新田純一 - 『五稜郭』(日本テレビ年末時代劇)
渡哲也 - 『坂の上の雲』(NHK・スペシャルドラマ)
脚注 [編集]
[ヘルプ]
^ 『日本の歴史 明治』より。
^ 秋山真之参謀が起草
^ 晩年になってこの文言を、1932年の軍人勅諭奉戴五十周年記念放送においてレコードに録音した。このことで肉声が残っている。
^ a b 『ニュータイプ中学歴史資料 学び考える歴史』浜島書店
^ ニューカッスル・ユナイテッド、初期の黄金期の出来事である。ニューカッスルは造船所や兵器工廠、砲廠のアームストロング社などがあり、日本にとって重要な取引先であり留学先でもあった。日本海海戦にもこの造船所で作られた戦艦が多数参加、主力艦を占めた。
^ この時には昭和天皇直々に「元帥は凡てに付き達観するを要す」と実質的戒告を受けた。茶谷誠一著「昭和天皇側近たちの戦争」 2010年、吉川弘文館、ISBN 4-642-05696-3
^ 中華民国の軍艦寧海は国葬時刻に間に合わぬと判断し、儀仗隊を下関から列車で東京に向かわせ、自らは後日弔意を示した
^ 参考、「たたらのはなし」日立金属HP
^ 、ただしハルゼー自身は日本海海戦は日本の卑怯な奇襲攻撃、舞踏会の日本人はニヤニヤした顔の裏でよからぬ事を企んでいると、この年別のパーティーで東郷と出会っていたニミッツやスプルーアンスとは異なる感慨を抱いていたと言われる(詳細はウイリアム・ハルゼーの項を参照のこと)。
^ 後に海軍兵学校の講義で井上成美は、この主張に対しもし敵の初弾が1/100の確率で味方の砲に当たった場合、反撃の手段を失うことになるとの確率論を根拠にこれに反証し、過度の精神主義に頼ることを批判した。
^ 東郷平八郎曾孫東郷宏重「心に住む曾祖父」、日本随想録編集委員会編『日本海海戦随想録<永久保存版>』(合資会社歴研、2003年初版、2005年永久保存版)第三篇 子孫が伝える「日本海海戦」、所収。
参考文献 [編集]
真木洋三 『東郷平八郎 (上・下)』 ISBN 4-16-308430-4 ISBN 4-16-308440-1 ISBN 4-16-730502-X ISBN 4-16-730503-8
星亮一 『沈黙の提督―海将 東郷平八郎伝』 ISBN 4-7698-0989-1
生出寿 『海軍の父 山本権兵衛〜日本を救った炯眼なる男の生涯』 ISBN 4-7698-0450-4 ISBN 4-7698-2054-2
『日本戦艦史』(『世界の艦船』増刊号)海人社、1988
ノビコフ, プリボイ 『ツシマ―バルチック艦隊の壊滅 (上・下)』 ISBN 4-562-01476-8 ISBN 4-562-02251-5 ISBN 4-562-02252-3
司馬遼太郎 『坂の上の雲』
文春文庫(1999年版): 1 ISBN 4-16-710576-4、2 ISBN 4-16-710577-2、3 ISBN 4-16-710578-0、4 ISBN 4-16-710579-9、5 ISBN 4-16-710580-2、6 ISBN 4-16-710581-0、7 ISBN 4-16-710582-9、8 ISBN 4-16-710583-7
吉村昭 『海の史劇』、新潮文庫、ISBN 4-10-111710-1
関連項目 [編集]
ウィキメディア・コモンズには、東郷平八郎に関連するマルチメディアがあります。鹿児島県出身の人物一覧
明治の人物一覧
大日本帝国海軍軍人一覧
海軍記念日
伊和都比売神社
宗像大社
日英関係
東郷神社
聯合艦隊解散之辞
加瀬俊一 (1925年入省)
肉じゃが - 東郷平八郎がビーフシチューを模して作らせたのが由来とされる。
東郷寺 - 東郷平八郎の別荘跡地に建立された日蓮宗の寺院。
外部リンク [編集]
東郷平八郎 銅像
近代日本人の肖像(国立国会図書館)
東郷氏系譜
記念艦みかさ公式ホームページ(財団法人三笠保存会)(世界三大記念艦として横須賀市の三笠公園に保存)
海上保安大学校図書館 旧海軍大学校図書(東郷文庫)
フィンランド語(東郷の顔入りラベルのビールについて)
高陞号船長(T.R.Galsworthy)の報告書(英文)
先代:
− 舞鶴鎮守府司令長官
初代:1901 - 1903 次代:
日高壮之丞
先代:
有地品之允 連合艦隊司令長官
第3・4代:1903 - 1905 次代:
伊集院五郎
先代:
伊東祐亨 海軍軍令部長(軍令部総長)
第8代:1905 - 1909 次代:
伊集院五郎
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E」より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 薩摩藩海軍の人物 | 戊辰戦争の人物 | 大日本帝国海軍軍人 | 日本の伯爵 | 貴族院侯爵議員 | 日本の神 (人物神) | 日清戦争の人物 | 日露戦争の人物 | 銅像 | 1848年生 | 1934年没 | メリット勲章 | 薩摩国の人物 | レジオンドヌール勲章受章者
個人用ツール
新機能 ログインまたはアカウント作成 名前空間
ページ ノート 変種表示
閲覧 編集 履歴表示 操作検索
他の言語
العربية Català Česky Deutsch English Esperanto Español Suomi Français עברית Magyar Bahasa Indonesia Ido Italiano 한국어 Nederlands Norsk (bokmål) Polski Português Русский Svenska Türkçe Tiếng Việt 中文 最終更新 2010年6月28日 (月) 14:09