【朝青龍明徳】=1万9624字⇔1万9043字 2010-2-22

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朝青龍明徳】=1万9624字⇔1万9043字 2010-2-22

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朝青龍明徳

土俵上の朝青龍
四股名 朝青龍
本名 Долгорсүрэнгийн Дагвадорж
ドルゴルスレン・ダグワドルジ
愛称 ドルジ
生年月日 1980年9月27日(29歳)
出身 モンゴル ウランバートル
身長 184cm
体重 147kg
所属部屋 若松部屋→高砂部屋
得意技 左四つ・寄り・突っ張り・投げ
成績
最高位 第68代横綱
生涯戦歴 669勝173敗76休(67場所)
幕内戦歴 596勝153敗76休(55場所)
優勝 幕内優勝25回
幕下優勝1回
三段目優勝1回
序二段優勝1回
賞 殊勲賞3回、敢闘賞3回
データ
初土俵 1999年1月場所
入幕 2001年1月場所
引退 2010年1月場所
趣味 音楽鑑賞、ラジコン
備考
2010年2月4日現在
表・話・編・歴
朝青龍明徳(あさしょうりゅう あきのり、1980年9月27日 - )は、モンゴル国出身の元力士で第68代横綱。本名 Долгорсүрэнгийн Дагвадорж;(Dolgorsürengiin Dagvadorj、ドルゴルスレン・ダグワドルジ[1])。

「平成の大横綱」とも形容される。四股名の由来は、高校在学時に世話になったという高知県土佐市青龍寺で、また、「明徳」という名前は出身校である明徳義塾高等学校にちなんで名づけられた。

愛称は本名からとった「ドルジ」やファンタのCMでのキャラクター「ファン太郎」など。また、スポーツ新聞の見出しなどでは「朝青」という略語も見られる。

左利きであり、塩を左手で撒く数少ない力士の一人である(左手で塩を撒いても作法上問題はない。また、ちゃんこを食す際、箸も左手で持っている)。

兄はレスリング選手、総合格闘家ドルゴルスレン・スミヤバザル、プロレスラーのブルー・ウルフ

目次 [非表示]
1 来歴
1.1 入門
1.2 幕内昇進以後
1.2.1 2002年/2003年
1.2.2 2004年/2005年
1.2.3 2006年/2007年
1.2.4 2008年
1.2.5 2009年
1.2.6 2010年
1.2.7 引退
2 場所別成績
3 主な力士との幕内対戦成績
4 主な成績
5 エピソード
6 他メディア
6.1 著書
6.2 CM出演
6.3 テレビ出演
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク

来歴
入門
15歳でモンゴル相撲を始め、ナーダムの相撲少年の部で優勝した。

1997年に日本の明徳義塾高校に相撲留学し、2年後に若松親方(当時、現高砂親方)によるスカウトにより、高校を中途退学して角界に入門した。

幕内昇進以後
2002年/2003年
2001年1月場所に新入幕し、翌年7月にモンゴル出身の力士として初めて大関に昇進し、同年11月場所、翌年1月場所に連続優勝して横綱に昇進した。ただし2002年9月の貴乃花戦に敗れた際、花道を引き上げる際に「畜生!」と大きな声で叫んだり、支度部屋で「怪我をしている左足を狙えばよかった」と発言したりするなど、当時からその品格が問題視されていた。

2003年、モンゴル人女性と結婚し、またこの年、長女が誕生した。同年5月場所、モンゴルの先輩旭鷲山との対戦で敗れた際土俵上で審判に対して物言いを要求、肩がぶつかった旭鷲山をにらみつけ、さがりを振り回した。さらに翌7月場所の対戦では髷を掴み反則負けとなり、取組後の風呂場で口論となった後に旭鷲山の車のサイドミラーを破壊。この場所は頸部挫傷により途中休場した。

2004年/2005年
2004年1月場所・3月場所で、2場所連続全勝優勝(30連勝)を果たした。

5月場所は6日目(同年5月14日)に平幕の北勝力に敗れて連勝が35で止まり、最終的にこの場所は2敗となったが、千秋楽(5月23日)にモンゴルの後輩、白鵬が立合いの変化で北勝力を破って「援護射撃」を果たすと、自身も結びの一番に勝って迎えた優勝決定戦で北勝力を破り3場所連続優勝を達成。部屋、一門の枠を超えて白鵬と喜びを分かち合った。

7月場所も13勝2敗で優勝。1996年の貴乃花以来となる、4場所連続優勝。2004年11月場所から7場所連続優勝(従来は1962年7月場所〜1963年5月場所、1966年3月場所〜1967年1月場所に2度記録した大鵬の6場所連続)、2005年には年間6場所完全優勝(従来は1966年の大鵬、1978年の北の湖、1986年の千代の富士、2004年の自身の5場所)、年間成績84勝6敗(従来は1978年の北の湖の82勝8敗)と、様々な記録を更新した。

2006年/2007年
8連覇を目指した2006年1月場所では11勝4敗に終わる。翌3月場所は優勝したものの白鵬に決定戦進出を許し、5月場所では2日目の若の里戦に敗れた際右肘を痛め3日目から途中休場するなど、同年前半は力の衰えも指摘され始めたが、7月場所に復帰すると11月場所の全勝を含め翌2007年1月場所まで4場所連続優勝し、史上5人目、外国人力士では初となる20回目の優勝を果たした。同場所千秋楽翌日の1月22日、『週刊現代』に自身の八百長疑惑が掲載された。後に朝青龍を始めとする現役力士と協会が起こした訴訟で、東京地方裁判所は被告である講談社側に、朝青龍へ1100万円を支払うことを命じた。詳細は武田頼政を参照。

翌3月場所は初日から2連敗。その後は連勝を続け、千秋楽で千代大海を立合いの変化で破って13連勝し優勝決定戦に持ち込んだものの、決定戦では逆に白鵬に立合いの変化で敗れた。

さらに5月場所は9連勝の後10日目に安美錦に敗れると調子を崩し、12日目からは4連敗で10勝5敗に終わり、横綱昇進後初めて2場所連続で優勝を逃すとともに、白鵬の連覇と横綱昇進を許した。翌7月場所では初日に再び安美錦に敗れ、前場所から続けて5連敗を喫した。これらの不振に関しては前述の八百長疑惑報道の影響も指摘された。2日目からは14連勝し、3場所ぶりの優勝、新横綱白鵬に対し先輩横綱としての意地を見せるとともに復活を果たしたかに見えた。

しかし同場所後の7月25日、「左肘内側側副靭帯損傷、左尺骨神経障害、急性腰痛症、第5腰椎疲労骨折で約6週間の休養、加療を要する」とした診断書を協会に提出、夏巡業(8月3日から20日まで)の不参加を届け出たが、当人がモンゴルで中田英寿らとサッカーをしている映像が同日報じられ、仮病疑惑が噴出[2]。巡業部は帰国後の巡業参加を拒否する方針を固め[3]、8月1日には日本相撲協会から2場所出場停止、減俸30%4ヶ月、11月場所千秋楽までの謹慎の処分を受けた。

当時の理事長の北の湖親方はこの際「あいつは意外と気が小さいから」と述べて、角界から朝青龍が去ってしまう可能性を危惧したとも言われている[4]。また同時に師匠の高砂親方も減俸30%4ヶ月の処分を受けた。この処分に対し日本並びにモンゴルのマスメディアが大々的に報道、在モンゴル日本大使館ではこの処分に対して市民が抗議デモを起こした。また在日モンゴル大使館は7月31日、「サッカーはモンゴル国主催のチャリティー大会のイベントであり、日本外務省を通じ半ば強引に参加を要請したもので、大変なこととなり迷惑をお掛けした」と日本相撲協会に対し謝罪した[5]。

同月27日には、日本経済新聞等で「東京国税局の税務調査を受け、テレビ番組やCMの出演料などの一部を申告していなかったなどとして、2005年までの3年間で約1億円の申告漏れを指摘されていた」ことが報道された。追徴税額は過少申告加算税を含め約3000万円であった。

同年8月6日には、心療内科医・本田昌毅の往診により「神経衰弱および抑うつ状態」との診断を受けていた[6]ものの、後に協会医務委員会が紹介した精神科医により解離性障害と診断されたと発表。協会は謹慎処分を一部訂正しモンゴルへの帰国を承認した。これを受け同月29日に治療をするとしてモンゴルへ帰国した。

9月場所を出場停止処分により全休したため、11月場所では新横綱であった2003年3月場所以来となる西横綱となった。

11月場所千秋楽(11月25日)を終えたため、当初の決定通り謹慎を解除され、11月30日にはモンゴルから93日ぶりに再来日した。同日夕方に謝罪会見を開き、朝青龍本人が一連の騒動について謝罪し、会見後は臨時横綱審議委員会(横審)で謝罪と経緯説明を行なった。

12月2日から大分県豊後大野市で始まる冬巡業に参加して、7月場所千秋楽以来133日ぶりに土俵に復帰した。初日の横綱白鵬戦では寄り切りで勝利した。

12月21日朝、横綱審議委員会で脚本家の内舘牧子が事前通告なしに稽古を視察するため高砂部屋を訪れたが、朝青龍の稽古が休みで肩すかしを食う。さらに内舘が朝青龍に「癌を克服し現役に復帰したプロレスラーの小橋建太を見ならいなさい」と発言した。

2008年
2008年1月13日、1月場所で前年7月場所以来の土俵復帰。約5年ぶりの西横綱となったためか、初日の土俵入りの際、西横綱は本来は左足から土俵中央へ歩み寄るところを、長年東横綱として君臨していた癖で、右足を先に出すというミスも見られるなど、当初は2場所ぶりの復活で「相撲勘」を取り戻せるかどうかが話題となった。注目された初日は琴奨菊戦で快勝するも、2日目の稀勢の里戦では豪快な送り倒しを決められ、早くも土がついた。また3日目には観戦していた内館横審委員を土俵上で睨みつける(本人は否定)[7]など、本来の横綱の風貌が戻ってきた。その後は不安定な取り組みがありながらも勝ち星を積み重ね、14日目まで1敗で東横綱白鵬と並び、2002年9月場所の武蔵丸 - 貴乃花戦以来、約5年半ぶりの横綱同士による千秋楽相星決戦となったが、過去に類を見ない白熱した大一番の末、白鵬に豪快な上手投げで破れた。

2008年3月場所では11日目までは全勝で、2敗で追う白鵬を引き離していたが、12日目で土がつき、翌13日目では対朝青龍戦28連敗中だった大関琴光喜が、連敗記録歴代2位[8]という屈辱の記録に終止符を打った。そして14日目には両横綱共に2敗で並び、1995年3月 - 5月場所の貴乃花 - 曙戦以来、約13年ぶりの2場所連続の千秋楽横綱相星決戦となった。結果は朝青龍が小手投げで勝利し22回目の優勝を決めた。この優勝で優勝回数が貴乃花と並んだ。


2008年5月場所で問題となった「にらみ合い」2008年5月場所では、出場停止中だった2007年11月場所以来の東横綱となったが、初日に稀勢の里に敗れた。その後は連勝したが11日目にこの場所初優勝した琴欧洲に敗れ、翌日以降さらに千代大海魁皇にも敗れて3連敗となり、優勝候補から外れた。翌日は琴光喜に勝って連敗を止めた。千秋楽では横綱白鵬に引き落としで勝ったが、この直後に負けて土俵上で四つんばいになっている白鵬を横から駄目押し、その行為に対し白鵬が立ち上がりながら朝青龍に右肩をぶつけ、両者がにらみ合う事件が起こった[9]。この事件で北の湖理事長が朝青龍白鵬を厳重注意した[10]。

2008年7月場所では、場所前の稽古不足や右足首痛などで不安視されたが、それが的中してしまった。初日に豊ノ島に上手投げで敗れた後2日目から3連勝したが、5日目に栃乃洋に押し倒しで敗れた際に左肘を痛め6日目から途中休場。朝青龍の休場は2007年11月場所以来、途中休場は2006年5月場所以来のこととなった。

2008年9月場所では中日までに、雅山安美錦豊ノ島に敗北した。豊ノ島戦はテレビ映像では微妙で抗議もあった[11]が、砂に足が付いた跡が残っていたとされる[12]。

引退説まで囁かれたが、大鵬と九重理事(元千代の富士)ははいずれも「(まだやれる事を)考えるべきだ」と述べた[13]。9日目までの5勝4敗という成績を受け、この日武蔵川理事長は休場を勧告し、10日目から休場することとなった。2場所連続休場はサッカー問題で出場停止処分を受けた2007年9月場所と11月場所を除けば自身初となる[14]。武蔵川理事長は復帰後の場所で、進退がかかることを示唆し[15]、朝青龍も進退をかけることを明言した[16]。11月場所は休場。

2009年
2009年1月場所は、場所前の横綱審議委員会稽古総見では調子が良くなく、進退問題も取り沙汰される状況で臨んだが[17]、初日から14連勝と次第に調子を上げ、千秋楽では本割の一番は立ち合いを失敗して白鵬に敗れたものの、優勝決定戦では本割と一転して厳しい攻めで白鵬を寄り切りで下し、貴乃花光司を抜き歴代単独4位となる通算23回目の優勝を果たした。

場所前はマスコミは進退問題をこぞって取り上げたが、優勝後も「相撲内容は安定感を欠いた」「稽古は不十分」「力の衰えを感じさせた」とバッシングを続けている。中には「4日目までに2勝2敗、7日目までに4勝3敗だったら、引退に追い込まれていたかもしれない」(産経新聞・奥山次郎)[18]、「軍配は白鵬、動が静をわずかに上回った」(毎日新聞・武藤久)[19]とタラレバを論った批判まで存在する。2009年3月場所は、初日から9連勝と全く隙のない相撲を見せていたが、10日目に過去14勝2敗と圧倒していた日馬富士に敗れてからは自分の相撲が取れず、結局11勝4敗に終わった。場所後、日馬富士戦で肋骨骨折していたことが判明した[20]。

2009年5月場所直前、朝青龍は申請していた日本国の永住権を取得したことを明らかにしたが、今のところ親方として相撲協会に残る際に必要となる帰化は行っていない[21]。

2009年7月6日、オフィシャルブログにて夫人と離婚していたことを発表した。

2009年9月場所は、初日から14連勝。全勝優勝がかかった千秋楽で横綱白鵬に寄り切りで敗れたが、優勝決定戦ではその白鵬をすくい投げで破り、北の湖に並ぶ通算24度目の優勝を果たした。なお、この日は自身の29歳の誕生日でもあった。

2009年10月、M資金詐欺で1億2000万円を騙し取られていたことが週刊誌で報じられた[22]。

2009年11月場所は、初日から11連勝したがその後4連敗し、11勝4敗で終わった。

2010年
2010年1月場所は千秋楽前の14日目に優勝を決め2場所ぶり25度目の優勝を果たしたが、千秋楽では白鵬に寄り倒され13勝2敗の成績となった。本割での白鵬戦は7連敗となり(その間に優勝決定戦で2回勝利)、横綱同士での対戦成績としては男女ノ川双葉山に喫したワースト記録に並んだ。

引退
2010年1月、場所中の1月16日未明に泥酔して暴れる騒動を起こしたと写真週刊誌に報じられ、場所後に日本相撲協会武蔵川理事長から厳重注意を受けた[23]。さらに、別の週刊誌の報道で、被害者が当初、名乗り出た一個人マネージャーではなく一般人男性だったことが発覚[23]。2月1日には、同協会の(理事選挙後の)新理事会で、調査委員会の設置が決まった[24]。

2010年2月4日、日本相撲協会の理事会で事情聴取を受けた後、突然、暴行問題の責任を取る形で現役を引退することを表明した[25]。

この引退表明は大きく報じられた。一部の新聞では号外が発行され、繁華街や都市部で配布された[26][27][28][29]ほか、テレビ各局の同日夕方以降のニュース番組で緊急特集が組まれた。

同じくモンゴル出身の横綱白鵬は同日中に記者会見を開き、「信じられない。まだやり残したことがあったと思う」と語るなど[30]、先輩横綱の突然の引退による衝撃をうかがわせた。

場所別成績
幕内通算成績(2010年(平成22年)1月場所終了現在)
596勝 - 153敗 - 76休場
優勝25回、殊勲賞3回、敢闘賞3回、金星1個[31]
朝青龍明徳 一月場所
初場所(東京) 三月場所
春場所(大阪) 五月場所
夏場所(東京) 七月場所
名古屋場所(愛知) 九月場所
秋場所(東京) 十一月場所
九州場所(福岡)
1999年
(平成11年) (前相撲) 序ノ口 #34
6–1
序二段 #85
7–0
三段目 #75
7–0
幕下 #53
6–1
幕下 #27
6–1

2000年
(平成12年) 幕下 #12
3–4
幕下 #19
5–2
幕下 #9
6–1
幕下 #2
7–0
十両 #7
9–6
十両 #3
11–4

2001年
(平成13年) 西 前頭 #12
9–6
東 前頭 #6
9–6
西 小結
8–7
殊 東 小結
7–8
西 前頭 #1
10–5
敢★ 東 小結
10–5

2002年
(平成14年) 西 関脇
8–7
西 関脇
11–4
殊 西 関脇
11–4
敢 東 関脇
12–3
殊 東 大関 #3
10–5
大関 #2
14–1

2003年
(平成15年) 東 大関 #1
14–1
西 横綱
10–5
横綱
13–2
横綱
5–5–5[32]
横綱
13–2
横綱
12–3

2004年
(平成16年) 東 横綱
15–0
横綱
15–0
横綱
13–2[33]
横綱
13–2
横綱
9–6
横綱
13–2

2005年
(平成17年) 東 横綱
15–0
横綱
14–1
横綱
15–0
横綱
13–2
横綱
13–2[34]
横綱
14–1

2006年
(平成18年) 東 横綱
11–4
横綱
13–2[35]
横綱
1–2–12[36]
横綱
14–1
横綱
13–2
横綱
15–0

2007年
(平成19年) 東 横綱
14–1
横綱
13–2[35]
横綱
10–5
横綱
14–1
横綱
出場停止
0–0–15 西 横綱
出場停止
0–0–15
2008年
(平成20年) 西 横綱
13–2
西 横綱
13–2
横綱
11–4
横綱
3–3–9[37]
西 横綱
5–5–5[38]

休場
0–0–15
2009年
(平成21年) 西 横綱
14–1[35]
横綱
11–4
西 横綱
12–3
西 横綱
10–5
西 横綱
14–1[35]
横綱
11–4

2010年
(平成22年) 西 横綱
優勝・引退
13–2–0 x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下

三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星
番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口


幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

主な力士との幕内対戦成績
2010年1月場所終了現在

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
旭鷲山 13 2 安美錦 17 6(1) 若の里 19 10(1)
旭天鵬 36 2 高見盛 10 1 鶴竜 7 0
時津海 7 1 霜鳳 8 0 玉春日 2 1
土佐ノ海 18 6(1) 北勝力 10 1 豪栄道 5 2(1)
玉乃島 19 3 岩木山 15 1 若ノ鵬 3 0
琴ノ若 11 4 垣添 13 0 嘉風 1 0
貴ノ浪 12 2 黒海 12 2 栃煌山 4 0
隆乃若 10 1 白鵬 12 13 栃ノ心 2 0
海鵬 6 1 琴欧洲 16 7 翔天狼 1 0
琴光喜 36 9 露鵬 9(1) 0 阿覧 1 0
武蔵丸 4 5 普天王 4 1 豊響 1 0
雅山 34 5 琴奨菊 15 1
出島 16 4 稀勢の里 13 4
武双山 12 3 日馬富士 17 5
貴乃花 0 2 豪風 7 0
琴龍 4 1 時天空 10 1
魁皇 25 12 白露山 2 0
千代大海 30 9 豊ノ島 7 2
栃東 15 10 把瑠都 9 0
栃乃洋 17 6 豊真将 3 0

(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数、太文字は2010年1月場所終了現在、現役力士)

主な成績
現役引退時

通算成績:669勝173敗76休(67場所、勝率.795)
幕内成績:596勝153敗76休(55場所、勝率.796)
横綱通算成績:463勝91敗76休(38場所、勝率.836)
年間最多勝:2002年(66勝24敗)、2003年(67勝18敗5休)、2004年(78勝12敗)、2005年(84勝6敗)、2006年(67勝11敗12休)
金星:1個(武蔵丸
負け越し:7回(途中休場場所 4回、出場停止2回含む)
2ケタ勝利場所:36回
全勝優勝:5回(2004年1月場所、2004年3月場所、2005年1月場所、2005年5月場所、2006年11月場所)
連勝:35連勝(2004年1月場所初日〜2004年5月場所5日目)
連覇:7連覇(史上最多、2004年11月場所〜2005年11月場所)
各段優勝
幕内優勝:25回(優勝回数は歴代単独3位、うち全勝優勝5回は歴代4位)
幕下優勝1回
三段目優勝:1回
序二段優勝:1回
三賞:6回
殊勲賞:3回
敢闘賞:3回
エピソード
2001年5月場所の安芸乃島戦から、2009年9月場所まで初顔合わせの相手に34連勝中であった。2位は北の湖の24連勝。
ジムでの筋力トレーニングを積極的に取り入れている力士の一人で、上腕二頭筋を用いてダンベルを持ち上げるダンベルカールでは、片腕で52.5kgを持ち上げる[39]。
以前高砂親方がゲスト出演した番組「女と男 聞けば聞くほど…」の出演記念のマグカップをいつも持ち歩いているが、これは若い頃ゴミ捨て場で拾ったものである。苦楽を共にしたマグカップなので、朝青龍本人は『力の源』と話している。
細木数子を「日本の母」と慕っている。同時に、日本の父と慕っているのは特等床山の床寿である[40]。
亀田三兄弟とも親交が深い。亀田興毅からは「兄貴」と慕われている。
第1子誕生を報じた2003年4月8日の日刊スポーツの記事に激怒し、報道の土俵でも横綱流の圧倒的強さを見せ、2日後茨城県内の巡業先でその記事を書いた韓国人記者を「バカ野郎」、「このクソ外人」、「キムチ野郎」と罵倒した、と『週刊新潮』2003年5月15日号[41]で報じられた。この際韓国人記者からの誘導尋問があったという説が流布しているが、これは2ちゃんねるで創作された書き込みが事実であるかのように各方面にコピー・アンド・ペーストされ広まったものである[42]。
2004年3月場所後の春巡業において、一門の枠を超えてモンゴル出身力士を集め、特別指導を実施した。
日馬富士とは違う部屋でありながら非常に仲が良く、場所中にもかかわらず一緒に夜の街へ繰り出すほどである。2007年1月場所14日目には豊ノ島を破って優勝を決める「援護射撃」を果たした日馬富士(当時の四股名安馬)から最敬礼されている。
2004年9月場所、2007年5月場所、2009年3月場所など、優勝の可能性がなくなると力を抜く傾向にある。
2003年11月場所前に同年7月場所で敗れ休場に追い込まれた高見盛に対し、バックドロップのような危険な吊り落としで右肩を亜脱臼させ(この怪我は医者からもう治らないと診断されている[要出典])、東関部屋から出稽古中止を宣言されたのを皮切りに、白石(現・白乃波)(2005年の秋巡業で首に古傷を抱えているにもかかわらず吊り落とし受け失神させられる)、琴欧州(現・琴欧洲)(2004年秋巡業で右膝内側側副靭帯損傷の重傷)、琴奨菊(新関脇の2007年3月場所前の稽古で通常は5〜6回程度のぶつかり稽古を20回近くも行い、腰を負傷。さらに竹刀で尻を叩かれる)、豊ノ島(新小結の2007年5月場所前の出稽古でプロレスまがいの技をかけられ右膝、右足首を負傷)、将司(2008年の夏巡業で朝青龍が将司に敗れて左肘を痛めた。秋場所前の稽古総見で古傷の左足首を故障)など多くの力士が被害を受けている。
2008年1月27日に放送された「新婚さんいらっしゃい!」に元高砂部屋の力士が新婚さんとして登場。朝青龍に子供の名付け親になってもらった事や、新婚家庭のテレビが小さいことを知った朝青龍が、その日の懸賞金を全てこの力士の家に置いて帰ったという話を披露した。
2009年1月場所千秋楽の優勝決定戦で白鵬に勝利して復活優勝を遂げた横綱朝青龍が勝利直後に土俵上でガッツポーズをしたが、この行為が横綱審査委員会などから品格の観点から問題視され、後日に日本相撲協会から所属部屋である高砂部屋親方の高砂親方を通じて厳重注意を受けた。
2009年9月場所千秋楽優勝決定戦で、横綱白鵬に勝利して3場所ぶり復活優勝を遂げた横綱朝青龍が勝利直後に、土俵上でガッツポーズをしたが、横綱審議委員会などから品格の観点から問題視され、後日に謝罪した。
2009年10月10日、国立代々木競技場第二体育館で行われたプロボクシングWBCスーパーバンタム級タイトルマッチ、西岡利晃VSイバン・エルナンデス(メキシコ)戦を観戦したが、リングサイドを挟んで内館牧子が観戦していた。試合終了後内館に「私はシナリオを書いてから来た。稽古を休んでは困る。来場所はまぐれ(優勝)は続かない。西岡からリングに対する姿勢を学びなさい。」と批判された。
2009年12月23日、フジテレビ系列全国ネットの番組、「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングにEXILEのMAKIDAIの紹介で出演した。友達紹介に亀田興毅を紹介した。当日は朝稽古を無断欠席しての出演だったため師匠の高砂親方は不機嫌な表情だった。また、日本相撲協会によると現役力士でのこの番組の出演は前例がないという[要出典]。
引退に先立ち、騒動の責任を取る形で辞意を表明していたマネージャーは、先代六代目 高砂浦五郎(富士錦猛光)親方の次男。
幕内昇進後、2010年1月場所を最後に引退するまでの取組での通算の決まり手数は41種を数えた[43]。
他メディア
著書
「一番、一番!真剣勝負」 NHK出版(2006年、ISBN 4-14-081084-X)
CM出演
日本郵政公社「真っ向。『朝青龍関』篇」
P&G 洗剤製品「ボールド」
富士通 ノートパソコン「FMV-BIBLO LOOX T70M/T『横綱の上で』篇」
アサヒ飲料 缶コーヒー「WONDA モーニングショット朝青龍』篇」
サントリー スポーツドリンク 「ゲータレード『MIX SPORTS』篇」
シャディ「朝青龍『スベスベ』篇」「シャディのお中元『流しそうめん』篇」
NTTドコモ「『朝青龍 - だからわたしはドコモです』篇」
コカ・コーラ「ファンタ 『ファン太郎が行く』シリーズ」[44](第49回ACC全日本CMフェスティバル演技賞[45])
テレビ出演
2005年と2006年に「いい旅夢気分」(テレビ東京)に出演。2005年には、弟弟子朝赤龍とともに神奈川県・丹沢山村で滝修行を行い、2006年には、朝赤龍のほか旭天鵬時天空のモンゴル出身力士4人で栃木県の日光を旅した。
さらに同番組の2007年の新春特番において、初場所を前にし大関千代大海と二人旅をし呉越同舟ともいえる企画があった。
脚注
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^ 「ドルゴルスレンギーン」(Долгорсүрэнгийн,Dolgorsürengiin )は「ドルゴルスレン(=父親名)の」の意だが、日本語報道では属格助詞「гийн , giin」を省略し、単に父親名をカナ表記して「ドルゴルスレン・ 」と表示されている。
^ 本場所出場停止も 骨折なのに元気にシュート!?朝青龍“仮病”疑惑 産経Iza! 2007年7月27日
^ 「夏巡業、来なくて結構」朝青龍仮病疑惑で怒り心頭の巡業部 産経Iza! 2007年7月28日
^ 処分踏み切った裏に横綱白鵬の存在スポーツニッポン2007年08月02日配信
^ モンゴル大使館が謝罪 朝青龍のサッカー問題で日本経済新聞
^ 朝青龍「心」の診断結果は「うつ寸前」 『スポーツニッポン』 2007年8月6日
^ 朝青龍“天敵”内館委員に闘志メラメラスポーツニッポン2008年01月16日配信
^ 歴代1位は栃光の対北の湖戦29連敗。
^ 両横綱、結びで醜態=勝負後ににらみ合い『時事ドットコム』2008年5月25日
^ 両横綱を呼び厳重注意=横審の進言受け−北の湖理事長『時事ドットコム』2008年5月27日
^ 「残ったと思った」朝青龍、判定に怒り心頭 スポニチ2008年09月21日配信
^ 微妙な判定で3敗目 怒りの朝青龍「たまったもんじゃねぇよ」 MSN産経2008年09月21日配信
^ 朝青、また疑惑の立ち会いで白星…大相撲秋場所7日目 スポーツ報知2008年09月20日配信
^ 朝青龍放心4敗休場へ 来場所進退…大相撲秋場所9日目 スポーツ報知2008年09月23日配信
^ 大相撲:朝青、モンゴル帰国 「治療に専念」 九州場所休場か 毎日新聞2008年10月7日東京朝刊
^ 朝青龍初場所で引退かける 中日スポーツ2008年10月7日紙面から
^ 『相撲 2月号 初場所総決算号』ベースボール・マガジン社 2009年 P19 - 22 「熱狂への序章 朝青龍、屈辱の総見稽古」、高瀬英治文
^ 主役はやっぱり朝青龍 視聴率アップ…協会「最高の商品」 MSN産経ニュース 2009年1月25日配信
^ 大相撲初場所:安定感と土俵態度、軍配は白鵬 毎日新聞 2009年1月25日配信
^ 「朝青、やぐら投げ 日馬富士にリベンジ」中日スポーツ2009年7月25日 紙面
^ 朝青龍、永住権得たけど帰化しない サンスポ 2009年4月29日閲覧
^ 『「朝青龍」がM資金詐欺で1億2000万円を騙し取られた! 懲りないガッツポーズの背景に隠されていた「横綱」切迫の裏事情』週刊新潮 2009年10月8日号
^ a b 朝青龍引退表明…暴行騒動の経緯. nikkansports.com , 日刊スポーツ新聞社(2010年2月4日). 2010年2月4日閲覧
^ 朝青龍暴行問題、相撲協会が調査委を設置. YOMIURI ONLINE, 読売新聞社(2010年2月1日). 2010年2月4日閲覧
^ 横綱朝青龍が現役引退を表明 産経新聞社(2010年2月4日). 2010年2月4日閲覧
^ “朝青龍引退の号外、驚きの声”. 読売新聞. (2010-02-04). http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100204-00001094-yom-soci 2010-02-05 閲覧。
^ “大相撲:朝青龍引退 毎日新聞が号外発行”. 毎日新聞. (2010-02-05). http://mainichi.jp/enta/sports/archive/news/2010/02/05/20100205ddm041050018000c.html 2010-02-05 閲覧。
^ “朝青龍引退 本紙が号外配布”. 産経新聞. (2010-02-05). http://www.sankei-kansai.com/2010/02/05/20100205-020167.php 2010-02-05 閲覧。
^ “「仕方ない」「さびしい」 本紙号外にファン 横綱朝青龍引退”. 北海道新聞. (2010-02-05). http://www.hokkaido-np.co.jp/news/sports/213998.html 2010-02-05 閲覧。
^ 白鵬が緊急会見 サンケイスポーツ 2010年2月4日閲覧
^ 対武蔵丸
^ 頸部挫傷、途中休場
^ 北勝力と優勝決定戦
^ 琴欧州(のち琴欧洲)と優勝決定戦
^ a b c d 白鵬と優勝決定戦
^ 右肘内側側副靱帯損傷、途中休場
^ 左肘内側側副靭帯損傷、途中休場
^ 途中休場
^ 2007年1月、サンケイスポーツより。
^ 床寿『大銀杏(おおいちょう)を結いながら 特等床山・床寿の流儀』(ISBN 978-4-569-70185-1)の帯。
^ この記事を後追いした他の媒体による記事は、現在まで存在しない。
^ 【相撲】朝青龍、韓国人記者に「キムチ野郎!」
^ 「業師だな」朝青龍ニヤリ、集中力欠く白鵬 iza 2010年1月22日
^ 日本コカコーラの『ファン太郎が行く』ニュースリリース
^ 「ACC・CMフェスティバル:朝青龍関らに演技賞」毎日新聞2009年10月3日東京朝刊
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、朝青龍明徳に関連するカテゴリがあります。ウィキニュースに関連記事があります。
朝青龍、2場所出場停止
横綱一覧
大相撲力士一覧
近藤利一朝青龍のタニマチで、朝青龍が「お父さん」と慕う人物のひとり。
和田友良 − 朝青龍の全国後援会の会長を務めた。
小田晋
カラコルム
ホジルト
外部リンク
朝青龍 明徳 - goo 大相撲
朝青龍の部屋 - HYPER高砂部屋
相撲レファレンス 選手データ
朝青龍オフィシャルブログ - 6代目高砂浦五郎・富士錦猛光の実子で、朝青龍のマネージャーでもある一宮章広のブログ
[表示]表・話・編・歴年間最優秀力士賞

1950年代 57 栃錦清隆 | 58 若乃花幹士 | 59 栃錦清隆

1960年代 60 大鵬幸喜 | 61 大鵬幸喜 | 62 大鵬幸喜 | 63 大鵬幸喜 | 64 大鵬幸喜 | 65 佐田の山晋松 | 66 柏戸剛 | 67 柏戸剛大鵬幸喜 | 68 玉乃島正夫 | 69 北の富士勝昭

1970年代 70 北の富士勝昭玉の海正洋 | 71 北の富士勝晃 | 72 輪島大士 | 73 輪島大士 | 74 北の湖敏満 | 75 北の湖敏満 | 76 輪島大士 | 77 北の湖敏満 | 78 北の湖敏満 | 79 北の湖敏満

1980年代 80 北の湖敏満 | 81 北の湖敏満 | 82 千代の富士貢 | 83 隆の里俊英 | 84 若嶋津六夫 | 85 千代の富士貢 | 86 千代の富士貢 | 87 北勝海信芳 | 88 旭富士正也 | 89 北勝海信芳

1990年代 90 旭富士正也 | 91 霧島一博 | 92 貴花田光司 | 93 曙太郎 | 94 貴乃花光司 | 95 貴乃花光司 | 96 貴乃花光司 | 97 貴乃花光司 | 98 若乃花勝 | 99 武蔵丸光洋

2000年代 00 曙太郎 | 01 武蔵丸光洋 | 02 朝青龍明徳 | 03 朝青龍明徳 | 04 朝青龍明徳 | 05 朝青龍明徳 | 06 朝青龍明徳 | 07 白鵬翔 | 08 白鵬翔 | 09 白鵬

[表示]表・話・編・歴

第68代横綱 (在位:2003年3月 - 2010年1月)

初代 - 10代 初代明石志賀之助 - 2代綾川五郎次 - 3代丸山権太左衛門 - 4代谷風梶之助 - 5代小野川喜三郎 - 6代阿武松緑之助 - 7代稲妻雷五郎 - 8代不知火諾右衛門 - 9代秀ノ山雷五郎 - 10代雲龍久吉

11代 - 20代 11代不知火光右衛門 - 12代陣幕久五郎 - 13代鬼面山谷五郎 - 14代境川浪右衛門 - 15代梅ヶ谷藤太郎 (初代) - 16代西ノ海嘉治郎 (初代) - 17代小錦八十吉 - 18代大砲万右エ門 - 19代常陸山谷右エ門 - 20代梅ヶ谷藤太郎 (2代)

21代 - 30代 21代若嶌權四郎 - 22代太刀山峯右エ門 - 23代大木戸森右エ門 - 24代鳳谷五郎 - 25代西ノ海嘉治郎 (2代) - 26代大錦卯一郎 - 27代栃木山守也 - 28代大錦大五郎 - 29代宮城山福松 - 30代西ノ海嘉治郎 (3代)

31代 - 40代 31代常ノ花寛市 - 32代玉錦三右エ門 - 33代武藏山武 - 34代男女ノ川登三 - 35代双葉山定次 - 36代羽黒山政司 - 37代安藝ノ海節男 - 38代照國萬藏 - 39代前田山英五郎 - 40代東富士欽壹

41代 - 50代 41代千代の山雅信 - 42代鏡里喜代治 - 43代吉葉山潤之輔 - 44代栃錦清隆 - 45代若乃花幹士 (初代) - 46代朝潮太郎 - 47代柏戸剛 - 48代大鵬幸喜 - 49代栃ノ海晃嘉 - 50代佐田の山晋松

51代 - 60代 51代玉の海正洋 - 52代北の富士勝昭 - 53代琴櫻傑將 - 54代輪島大士 - 55代北の湖敏満 - 56代若乃花幹士 (2代) - 57代三重ノ海剛司 - 58代千代の富士貢 - 59代隆の里俊英 - 60代双羽黒光司

61代 - 69代 61代北勝海信芳 - 62代大乃国康 - 63代旭富士正也 - 64代曙太郎 - 65代貴乃花光司 - 66代若乃花勝 - 67代武蔵丸光洋 - 68代朝青龍明徳 - 69代白鵬

無類力士 雷電爲右エ門

[表示]表・話・編・歴

歴代大関(昭和以降)(在位:2002年9月 - 2003年1月)

161代 - 180代 161代能代潟錦作 | 162代常陸岩英太郎 | 163代豊國福馬 | 164代玉錦三右エ門 | 165代武藏山武 | 166代清水川元吉 | 167代男女ノ川登三 | 168代双葉山定次 | 169代鏡岩善四郎 | 170代前田山英五郎 | 171代羽黒山政司 | 172代安藝ノ海節男 | 173代五ツ嶋奈良男 | 174代照國万蔵 | 175代名寄岩静男 | 176代佐賀ノ花勝巳 | 177代東冨士謹一 | 178代汐ノ海運右衛門 | 179代増位山大志郎 | 180代千代ノ山雅信

181代 - 200代 181代吉葉山潤之輔 | 182代鏡里喜代治 | 183代栃錦清隆 | 184代三根山隆司 | 185代大内山平吉 | 186代松登晟郎 | 187代若乃花勝治 | 188代朝汐太郎 | 189代琴ヶ濱貞雄 | 190代若羽黒朋明 | 191代柏戸剛 | 192代大鵬幸喜 | 193代北葉山英俊 | 194代佐田の山晋松 | 195代栃ノ海晃嘉 | 196代栃光正之 | 197代豊山勝男 | 198代北の富士勝昭 | 199代玉乃島正夫 | 200代琴櫻傑将

201代 - 220代 201代清國勝雄 | 202代前の山太郎 | 203代大麒麟將能 | 204代輪島大士 | 205代貴ノ花利彰 | 206代大受久晃 | 207代北の湖敏満 | 208代魁傑將晃 | 209代三重ノ海剛司 | 210代旭國斗雄 | 211代若三杉壽人 | 212代増位山太志郎 | 213代千代の富士貢 | 214代琴風豪規 | 215代隆の里俊英 | 216代若嶋津六夫 | 217代朝潮太郎 | 218北天佑勝彦 | 219代大乃国康 | 220代北尾光司

221代 - 240代 221代北勝海信芳 | 222代小錦八十吉 | 223代旭富士正也 | 224代霧島一博 | 225代曙太郎 | 226貴ノ花光司 | 227代若乃花勝 | 228代貴ノ浪貞博 | 229代武蔵丸光洋 | 230代千代大海龍二 | 231代出島武春 | 232代武双山正士 | 233代雅山哲士 | 234代魁皇博之 | 235代栃東大裕 | 236代朝青龍明徳 | 237代琴欧洲勝紀 | 238代白鵬翔 | 239代琴光喜啓司 | 240代日馬富士公平

[表示]表・話・編・歴

日本プロスポーツ大賞 受賞者・団体

1960年代 68 西城正三 | 69 読売巨人軍

1970年代 70 大鵬幸喜 | 71 長嶋茂雄 | 72 松本勝明 | 73 沢村忠 | 74 王貞治 | 75 広島東洋カープ | 76 王貞治 | 77 王貞治 | 78 ヤクルトスワローズ | 79 具志堅用高

1980年代 80 具志堅用高 | 81 中野浩一 | 82 落合博満 | 83 広岡達朗 | 84 衣笠祥雄 | 85 ランディ・バース | 86 落合博満 | 87 岡本綾子 | 88 千代の富士貢 | 89 千代の富士

1990年代 90 野茂英雄 | 91 辰吉丈一郎 | 92 貴花田光司 | 93 三浦知良 | 94 イチロー | 95 イチロー | 96 尾崎将司 | 97 中田英寿 | 98 佐々木主浩 | 99 松坂大輔

2000年代 00 松井秀喜 | 01 イチロー | 02 FIFAワールドカップ日本代表 | 03 松井秀喜 | 04 朝青龍明徳 | 05 朝青龍明徳 | 06 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 | 07 浦和レッドダイヤモンズ | 08 石川遼 | 09 石川遼

この「朝青龍明徳」は、相撲に関連した書きかけ項目です。記事を加筆・訂正してくださる協力者を求めています(PJ相撲)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%9D%92%E9%BE%8D%E6%98%8E%E5%BE%B3」より作成
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最終更新 2010年2月16日 (火) 14:20