横光利一 【よこみつ・りいち】

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横光利一 【よこみつ・りいち】

小説家。明治31年3月17日〜昭和22年12月30日。福島県会津郡に生まれる。大正3年早稲田大学英文科に入学。大正12年、斬新な構図、文体を駆使した「蝿」、「日輪」によって注目を浴び、一躍新進作家としての地位を確立。大正13年川端康成らとともに「文芸時代」を創刊。芸術派文学陣営の先駆として活躍し、プロレタリア文学陣営と激しい論争を展開する。昭和5年、新心理主義的手法を取り入れた「機械」を発表。小林秀雄による絶賛もあいまって、大きな反響を呼んだ。昭和10年、〈純文学にして通俗小説〉を提唱した評論「純粋小説論」を発表。戦時下においては、ヨーロッパの合理主義に対する日本独自の精神を模索した大作「旅愁」(昭和12〜21)を書き続けたが、未完に終わった。昭和22年12月30日、急性腹膜炎により死去。享年49歳。代表作は「春は馬車に乗つて」、「機械」、「上海」、「紋章」、「旅愁」など。

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著作目録

小説・戯曲 : 発表年順

エッセイ・その他 : 発表年順



回想録

 当時、この本屋の近くにピノチオといふ支那料理屋があつた。この店の主人が「是非とも横光さんに御馳走したい」と意気込んで、その店で一ばん上等の料理をいろいろ御馳走した。自慢の料理ばかり並べたのである。御馳走がおしまひになつてから、店の主人が料理についての感想を伺ひたいと云つた。たぶんこの店のチャーチーカイはうまいとか、フーヨーハイはどうだとか感想を述べてもらひたい一心であつたと思はれる。故人は暫く考へてゐたが、「お宅のビールはうまいですなあ」と云つた。この答へによつて、主人は可成り悄気たやうであつた。後になつてから私に「この樽ビールは、横浜で出来るものです。讃めてもらつても、うちの店の自慢にはならないのに、どうも、上手のない人ですね」と云つてゐた。この話は横光氏が阿佐ヶ谷から下北沢に移つて行つた後も、ピノチオの主人の一口ばなしのやうになつてゐた。(中略)
 私は阿佐ヶ谷時代の故人のことは幾らか知つてゐる。書斎の窓に唐草模様のカーテンが掛けてあつた。どんなに夜ふけに通つても、そのカーテンのところにだけは明りがさしてゐた。たいてい夜ふけて私がそこを通るのは、阿佐ヶ谷あたりで酒をのんで歩いて帰る場合が多かつた。私は唐草模様のカーテンの明るみを見て「またブレーキがついてゐる」とよく思つた。人にも実際たびたびさう云つたことである。ブレーキとは、こちらの堕落を防ぐブレーキの意味である。故人の存在は私には堕落を防ぐブレーキであつた。そのころも私が堕落しきることが出来なかつたのは、このブレーキが可成り効きめがあつたやうに思はれる。

井伏鱒二「阿佐ヶ谷時代の横光氏のこと」
昭和23年4月



 横光先生を私が識ったのは昭和七年であるが、北沢で家が近かったので、前からちょいちょいお見掛けしていた。最初は昭和四年の冬休みに京都から帰った私が、森厳寺の地続きに建てかけの家を見に行った時である。
 当時帝都線はまだなく、小田急下北沢が最寄りの駅であった。帰途電車を待っていると、横光先生が来られた。よく晴れた冬の日であった。先生は二人の美しく着飾った婦人を連れておられた。夫人とその妹さんであったらしい。
 先生は馴れた動作で文学青年の好奇的な眼をそらされた。やがて来た新宿行の電車は東北沢、代々木上原間で人を轢いた。停車した車の窓から見ると、菰の下から、人夫風に膝から下のしまったズボンの脚が出ていた。
 乗客は皆一方の窓に移って窓から首を出した。私もその一人であった。気がつくと横光先生は唯一人反対側に腰を下して、腕を拱いておられた。
「ちぇっ、気取ってやがら」これが生意気盛りの文学青年の頭に、最初に浮んだ感想であった。
 自分の乗った電車が人を轢くなぞということはざらにあることではあるまい、皆珍らしいから眺めるのである、こんなつまらんことで人並の好奇心を抑制する必要がどこにある、というこころであった。
 後年先生と面識を得て、酒なぞ飲んでいた時、私はこの話をした。先生は覚えておられた。そして簡単に「僕はもう見たから坐っていたんだよ」といわれた。私は赤面した。
 死体なぞ長く眺められるものではない。私とても車内の先生の姿に振り向く余裕があったくらい、ろくに見てはいなかったのである。先生の行為はただ自分の感覚に忠実であるにすぎなかったのである。

大岡昇平「横光先生の思い出」
昭和25年3月



 冬枯れのパリで会つた時、横光さんは憂鬱に打ちのめされて青黄色い顔をしていた。
 パリの雰囲気が想像とは違つて、非情で暗く、きびしかつたことにもよるのであろうか。当時、横光さんは大変な肩書を持つてヨーロッパにやつて来たのである。「文学の神様」であり、日本の知性の尖端でもあつた。(その頃の日本は世界に冠たる神国、一種の文化の尺度としての気位を持つていた。)横光さん自身、自分の立場を非常に意識していたようである。自然にポーズとなつて現れた。それが在住の日本人達に何となく近寄り難い気分を与えたのはとも角として、パリという街、そしてそれが想像する西欧文化に対して、肩肘を張つた感じであつた。それがはね返つて来て、徹底的に孤独だつたのである。
パリの憂鬱ということがありますが、……しかし僕も生れてから色々と憂鬱を味つたことがあるが、こんなひどい憂鬱におそわれたことは無いですな。身が粉々に砕けてしまうようです。」と云つていた。文藝春秋に「失望のパリ」という原稿を送つたのはその時分のことであつた。
 私は氏の稀に見る純粋さと善良さを畏敬して、自分の生活をさいて極力パリの案内その他をつとめてあげた。私の幼い頃を知つている横光さんは、私にだけは心からの親しみを表して、全くあけつ放しな、滑稽な程無邪気な態度で、不馴れなパリ滞在の頼りにした。それからは彼の憂鬱、孤独感が目に見えて柔らげられ、パリの雰囲気を讃仰しはじめた。
 やがて五月になると、街路樹が眼のさめるような新緑におおわれる。宛も天地の突発事件のように、いつぱいにマロニエの白い花が開き、街々が装いを変えるのである。すつかりパリファンになつた横光さんは、酔つたように街々を歩き廻つた。

岡本太郎旅愁の人」
初出未詳



 友人に対して、無言のうちに良い配慮を絶やさないと云ふ一言で、横光の人となりは尽きるだらう。岩のやうな友情である。触りが固くて、居心地がわるいやうだが、気がついて見ると、何とも云はれぬ頼母しさがある。対座して居ると、彼の良い意志を無言のうちに感じられるのである。
 一と頃、新感覚派が四面楚歌のうちにあつて、横光は殆ど何も書かなかつた。去年の暮れに一年振りに菅忠雄と三人で会見した時、
『何も書かなかつたやうだが、この一年、苦しかつたらう』と私が云うと、
『貧乏したよ。』と平気で笑つて居た。
 私は、金のためにはずゐ分一夜漬けの非芸術な読物まで書いて来た私自身が恥しく、『とても俺は此の男には素質的にかなはぬ』と心から嘆いたのであつた。

片岡鉄兵「四角と腹」
大正15年6月



 ところが一度、その横光さんが、人をぶんなぐつたところを見たことがある。戦時中だつたと思ふが、中国の文化人が来て、「文学界」の同人四五人で目黒の茶寮で歓待したことがあつた。河上徹太郎さんのきもいりで、他に中村光夫君もゐた。酒を飲んでゐるうちに、酔つた中村君が横光さんにからんで、作品を罵倒しはじめたのである。横光さんは食卓に肘をつき、稍々うつむいて聞いてゐた。ちようど袋叩きに逢ふのを、観念したやうな格恰であつた。なかなかいい姿だと思つて眺めてゐると、突如として立ち上り、中村君の頬をぴしやりと叩き、「帰る!」と一言云つたまま、廊下へ去つたのである。茶寮の長い廊下を、肩いからして、のつしのつしと去る横光さんの姿は、花道をひきあげる、歌舞伎役者のやうであつた。
 驚いたのは私達である。いや、中村君も悪気あつてのことではないので、驚き、直ちに後を追うて、横光さんの肩を抱いて席につれ戻した。横光さんは黙つて席に着き、盃をとりながら、軽く微笑した。このときの印象はいまも鮮かである。横光さんの一挙一動が、何か板についてゐると云つた風で、叩きぶり、立ち上りの姿、廊下を去るところ、つれ戻されて卓の前にぴたりと座るまで、ちよつとお能の所作をみるやうであつた。古典的な喧嘩ぶりとも云へようか。

亀井勝一郎「横光さんの印象」
昭和25年6月



 河上 あんないい人間が死んぢやつて……。
 菊池 ほんとだね。横光はほんとにいい人間なんだね。あれとは三十年もつきあつたけれども、一度も人に対して怒つたことがないんだ。恐らく人と喧嘩したこと、ないだらうね。
 川端 ないでせう。
 菊池 ただ一度、何だかブツブツ、ひとり言を言つて、誰かのことを言つてたことがあつたさうだね。
 川端 自分を責めて、人には何にも言へないんですね。
 舟橋 もう、横光さんのやうないい人は出ないでせう。実にいい人だつた。これは私が最後に横光さんにあつた時の話ですがね。菊池先生のお宅の二階のお座敷の廊下の長椅子に僕を押しつけて私のズボンの上からアレを触るんですよ、サホをね。それから言ふんですよ、俺は君の程度くらゐに堕落したかつた、さういつて何度もさわりなからそれが出来なかつたのが俺の失敗だつて。ずゐぶん触つてましたよ。見せろと言つたけれども、見せやしませんでしたがね。僕はその時横光さんの本音はこれだと感動したな。(笑)
 川端 せめて、もう少しいい時代になるまで生かしておきたかつた。
(中略)
 菊池 あれだけいい人間ていふのは、まづゐないね。そりやア、これからもいい人間はゐるだらうが、さういふ人には小説が書けないんだ。これから小説の書ける者は、どこか、悪い処のある者でないと、書けないね。

河上徹太郎川端康成菊池寛舟橋聖一ほか「横光利一の思ひ出」
昭和23年4月



 横光氏に初めて会つたのは小石川中富坂の菊池寛氏の家であつた。その日夕方、三人で家を出て本郷弓町の江知勝で牛鍋の御馳走になつたことを覚えてゐる。横光氏はどういふわけかほとんど箸を持たなかつた。また小説の構想を話しながら声高に熱して来て、つかつかと道端のシヨウ・ウインドオに歩み寄ると、そのガラスが病院の部屋の壁であるかのやうに、病人が壁添ひに倒れ落ちる身真似をした。この二つが第一印象である。横光氏の話しぶりには、激しく強い、純潔な凄気があつた。横光氏が先に帰ると、あれはえらい男だから友達になれと、菊池氏が言つた。大正十年、横光氏数へ年二十四歳、私二十三歳のことである。横光氏は「人間」の新進作家号に「南北」を出す前で、「時事新報」の懸賞に応募して宇野千代氏や尾崎士郎氏などに次いで選外第二位に選ばれてはゐたが、まづ全くの無名であつた。富ノ沢麟太郎氏、藤森淳三氏、古賀龍視氏などの諸氏と共に同人雑誌「街」を出してゐた、すぐ後である。

川端康成「「横光利一」集解説」
昭和41年4月



 横光氏は「日輪」によつて、旧文学に訣別した。昭和の初め、僕たちが同人雑誌を始めた頃、横光利一と言へば、若い世代のホープであつた。新しい文学を語らうとすれば、目を輝かして横光利一の名を口にしたし、新感覚派張りの亜流も続出した。新感覚派張りでなくては、新しいと思はれない時代を作つたのであつた。私などは、さういふ若い人たちの傾向を軽蔑してゐたが、自分の文学を新しくするためには、嫌やでも応でも、それに洗はれざるを得なかつた。同人雑誌を開いてみると、過渡期の作品が、恥かしいほど新感覚派の影響を受けてゐるのに気付く。
 若い人たちの間ではそのやうであつたから、一方において、大正期及びそれ以前の旧文学の側からは、横光文学に対する風当りが強く、白眼視されたことは、我々の想像以上であつたにちがひない。旧文学の側よりする風当りと白眼視は、恐らく横光氏が死ぬるまでつづいたのではなからうか。その証拠には、横光氏より先輩の作家で、横光氏の文学を買つてゐる人を一人も見ないのである。その白眼の中を横光氏が切抜けて行つたのは、横光氏の熾烈な文学精神と、それを支持した若き世代の力であつたと思ふ。

上林暁「「春は馬車に乗つて」への郷愁」
昭和23年7月



 横光さんの原稿を手にしたことのあるのは、多く特定の編輯者であつたと思ふが、僕らが横光さんの原稿を見て励まされることが多かつた一つのわけは、あのおびたゞしい推敲の故であつた。
 なに、あんなに多くの推敲の手を入れるなら、誰だつて名文を書けるよと僕は若い人たちに語つて説明して笑つたものだ。勿論、背筋には、げつそりと痩せるにきまつてゐた、横光さんの精進に鞭打たれる鋭く劇しい疼痛を感じながらの讃嘆を云ひ添えてであつた。
(中略)
 或る時、横光さんは僕に突然こんなことを云つた。
「死ぬ前の芥川の手はまるで鶏の手のようだつた。鶏の手なんだよ君。」
 僕には、まさしく横光さんの手が鶏の手のように思はれた。そのいたましき手は、芥川が書いただけのものは俺も書いたと、最後の閧を叫ぶ鶏の手の表情のように感じて尊かつたのがまざまざと思ひかへされる。が、そのようなことも、いはゞ凄惨なことであつた。なみなみの作家の道ではなかつた。こゝに、あの「推敲」があつた。横光さんの科学といひ数学といふも、この命けづる「推敲」のことに過ぎなかつたではないか。小説も、文学も、人生も、民族も、国家も、「推敲」だといつたら判る者もあるだらう。

菊岡久利「横光さん」
昭和23年4月



 昭和二年には、横光、池谷、片岡、久米などと一しよに、秋田から新潟へ講演旅行したりなどした。この頃は、よほど親しく出入りしてゐたのであらう。その頃は、既に横光君は、最初の奥さんと死別してゐたのである。まもなく、僕の所へ出入してゐた小里さんと云ふ女性と恋愛した。この女性は、女子大の出身で文章も上手で近代的な女性であつたが、異常な性格で、恋愛してからすぐ、横光の寝てゐる蚊帳の中へ(わたし、そこへは入つてもいゝ)と行つて、一しよに寝た位奔放であつたが、横光君と同棲しながら、つひに身体をゆるさないと云ふ女であつた。こう云ふ女にかゝつては、性愛技巧などは全然知らない横光は、どうにもならず相当悩まされたらしく、間もなく別れてしまつた。
 そのあと、間もなく現在の奥さんを知つたのである。その頃、有島武郎邸にあつた文藝春秋社の離れで、横光君が、誰かと話してゐる。相手は障子の陰にかくれてゐるので、誰だらうと思つてのぞくと、若い女性だつた。世にもこんな美しい人がゐるかと思ふ位、美しい人だつた。それが、今の奥さんである。文章などもうまく、その手紙は横光がいつか小説に使つてゐた。
 その奥さんとの話は、僕が奥さんのお父さんに直接会つて、話をまとめ、仲人なども僕がしたのである。
 この時代の横光に、経済的に援助してゐたかどうか、すつかり忘れたが、横光が家を建てる時には、金を融通してやつたように記憶してゐる。
 昭和五年には、満洲へ一しよに旅行した。池谷、直木なども一しよであつた。池谷と横光とは可なり親しかつた。
 横光とは、旅行などもいく度もしたが、僕と二人ぎりで旅行する時などは、切符を買つたりする雑用は、僕がしてやらなければならない位、彼は世事にうとかつた。
 いつか岡本かの子さんの家に、二人で遊びに行つたが、かの子さんと横光との問答を聴いてゐると、まるで子供同志が話してゐるようであつた。
 これで二人とも、小説がかけるのかと疑われる位であつた。

菊池寛「横光君のこと」
昭和23年2月



 昨年の夏以来、虫が知らせたのか、わたしはしばしば横光利一氏を見舞つている。
 見るも痛々しく、痩せ細つてはいられたが、以前に変らぬ元気である。応接間に響きわたるような声で話される。
 或る日は
「岩野泡鳴は凄い。明治、大正、昭和を通じて、この人なんか残る人ですね。まるで文章が咆えている。」と。
 或る日は、わたしが、どうして俳句を作られるのですか、横光氏には自由詩を書いて貰いたいのですが、と云うと、
「小説はあまりにも自由ですからね。ときに縛られて見たくなるんです。これは大きな声では云えないけれど、芥川の小説は滅びるかも知れぬが、俳句は残りますね。僕なんかも、小説の草原の上にその頂点として露滴のように、俳句が光ると思うんですよ」と。
 或る日は
「この間、新聞に出たへルマン・ヘッセの日本の作家に与えた文章読みましたか。日本の作家は西洋の思想に憧れているが、日本には『禅』と云う立派な思想があるじやないかと云う警告なんだ。これは痛いところですね。しかし、アレに就て、誰もうんともすんとも云わない。」

北川冬彦「昇天」
昭和24年2月



横光利一といえば、日本文学の可能性を切り拓き追求する最尖端の作家、現代文学の代表的小説家として、自他ともに許す存在であった。しかし横光氏が“文学の神様”と称されだしたのは、昭和五年に「機械」が、六年に「時間」が発表されて以来のことだったと思う。これには「機械」の現代的意義を高く評価した小林秀雄氏の評論を無視できないが、それから「寝園」や「家族会議」が新聞に連載されて、私が雑誌編集者になった昭和十二年頃は、“文学の神様”時代の最盛期であった。(中略)
 戦前戦後にわたる私の長い雑誌編集者経歴の中でも、横光利一という名前ほど、雑誌の創作欄のトップにふさわしかったものは他に例がない。当時の純文学作品の発表機関としては、総合雑誌の『改造』『中央公論』『日本評論』『文芸春秋』の四誌、それと文芸雑誌の『文芸』『新潮』『文学界』の三誌にほぼ限られていて、総合雑誌に載るのは一流作家の作品ないしは一流品と評価される作品であり、文芸雑誌は中堅・新進の発表機関であり新人の登龍門であった。毎月何篇かの小説がそれぞれの雑誌の創作欄にならぶのだが、その組み合わせや目次の配列順序は、力量、盛名度、出来栄え、それに編集部の志向などが反映するだけに、それについて作家たちはたいへん敏感であった。(中略)そんな中で、横光氏の名前は常に創作欄の目次のトップにあった。横光利一の名がトップにあるとたちまちその号が華やいで見えた。新感覚派以来横光・川端と絶えず併称されていても、川端康成の名は文芸雑誌ならともかく、総合雑誌では横光利一の輝きには到底及ばなかった。

木村徳三「文芸編集者 その跫音」
昭和57年6月



 戦争が終って、私は二年ぶりで横光家を訪れた。そして戦前とは打って変った空気に愕然とした。横光家は空家のようにしんとしていて客もいなかったのである。かつて出入りしていた人びとも戦争にとられたり疎開したりで減ってしまったのは当然だとしても、変りようがひどすぎた。その後も、いつ訪問しても客はなかった。戦争末期の横光さんの国粋主義的傾向に対する批判の集中的あらわれだった。戦前の文壇の第一人者だっただけに、殊更に戦後ジャーナリズムの風当りは激しかったのだ。大正末期以来横光氏が果たした大きな文学史的役割を無視し、その燦然たる業績を黙殺するばかりか、戦争中の作品傾向を顰蹙、憫笑する作家・評論家が横行し、少し前まで長篇「旅愁」に感激した読者もそれを口にしなくなっていた。変革期の非情があらためて痛感させられた。
 横光さんはすっかり寡黙になり、笑みを失なった顔色は疲れ切った蒼黒さに沈んでいた。夫人の表情も暗かった。かつてその客間に入るたびに目に鮮やかだったテーブルクロスの真紅が、妙に色褪せて見えた。赤い革のスツールもなくなっていた。

木村徳三、同上



 男性的なる男は神様になるのが必然の目的である。氏は菊池寛氏と同じ原稿料になることを念願とされ、
「きみ、稿料が欲しいわけではないが、最高の稿料を取つた時の気持を味わつて見たくてね」
 と親しい人に洩されたとも聞く。
 いつの頃か知れないが、氏が飛行機に搭乗されたあとで、氏は空中に父君の霊魂がいると話されていたので、或る人が、
「霊魂にお会いになりましたか」
 と聞くと、
「いや会つた。父にあつて来た。迎えてくれてね」
 と答えられたそうである。
 氏は神のない日本に、いろ/\の神を創られた。氏が時計台の下に佇立して愁を帯びた表情で賭けられたのは、云うまでもなく氏自身をであり、神の創造であつた筈である。その神とは「眼」を通して見た勢力かんけいの秘密であり、その他もろ/\のものであろう。氏の愁顔が益々深くなつていつたのは、氏の神様たるの負担のせいであろう。しかし氏は又みずからその長髪を貴重なる一支点と計量されたようだ。氏の歌は余り立派な恰好ではなかつたらしい。
「先生はどうしていつも髪の毛をそんなに長くしておられるのですか」
 という不躾な問に、
「きみ、人生の傾斜面の下降を止めるには何か必要ですからね。それでないと一気に滑つて行つてしまいますよ」
 と答えられた、と云う。氏はこの頭をそのまゝヨーロッパヘも持って行かれた。

小島信夫「「勇ましさ」について」
昭和28年12月



 横光利一のことを考へると一昔前、あの銀杏の枯れ葉の散り布いた本郷通りのアスフアルトの上を、狐の襟巻をした姿を想ひ出す。もう今ではしなくなつたが深いソフト帽を被り、黒いインバネスを着て、俎のやうに大きな下駄を穿き、ぬく/\と首に巻きつけた古風な狐の襟巻をした彼を見ると、私は何といふこともなしに愉快になつたもんだ。
 狐の襟巻はシヤレたものだ。それが少しばかり赤毛の耳隠しで、極上の黒天鵞絨のコートを着た若い近代の娘が、狐の襟巻をしてゐるのはなか/\見事なものだ。しかし、それを横光利一がしてゐるのは、さうだ、何といつたものだらう……。
     ○
 誰だか横光利一のことを「力作の感じだ」と言つたことがある。此の観察は面白いと今だに私は忘れない。右の一言は横光利一の全幅の印象を描出してゐるではないか。
     ○
 あの異様に乱れた髪の毛。それから無気味なほど青褪めた顔色。怒鳴るやうな声。さうして実に綺麗な歯。子供らしい如何にも嬉しさうな笑ひ声。癖のある煙草の吸ひ方。心持ち肩を持ちあげて歩くポーズ。それから世の中で鰻とカステラ饅頭くらひ甘いものは無いと信じてゐる彼。

今東光横光利一君の素描」
大正15年6月



 今では男の長髪などめずらしくはないが、大正から昭和前期にかけては、それは洋画家か一部の文士にしか見られない風俗だった。しかし横光さんのは長髪というより自然発生的な蓬髪で、本藍で染めたつむぎの着物の青と陶器のような顔色とが不思議に調和していた。外出するときなど、蓬髪の上にちょこんと茶色の中折帽子をのせ、畳表の草履をはいてステッキを片手にもち、忙がしげに歩く姿は通りすがりの人が思わずふりむくほどだった。

庄野誠一「「旅愁」の頃」
昭和57年3月



「機械」などを書かれていた時だつたろうか、一緒に銀座を歩いたことがある。二人とも無帽だつた。横光さんはインバを召されていたから、季節は冬であつたにちがいない。
 どこかで茶を喫んでいて、僕が鳥打を買いたいと言い出すと、そうか、それならT屋へ行こう、俺も買う、と言うようなことで、一緒にその店へ行つた。
 僕は店員相手にいろいろ選択したあげく、地味な茶つぽい奴をかぶることにしたが、横光さんは傍で商品の羅列をじつと睨んでいるだけで、いつこう手を出されようとはせず、
「どうです。いいのがありませんか」
 僕が振返ると、
「いや、あいつだ
 と、横光さんはいきなり猿臂を伸ばして派手な霜降りの新型をつかみ、無造作に蓬髪にかぶられた。サイズはちようどよかつた。黒いインバに、白つぽい大縞な鳥打をかぶつたところは、頸の部分だけが何だか春めいた感じで、ひどく季節にそぐわない印象だつた。が、横光さんはそのままそばの鏡をのぞこうともしないで、さつさと街へ出られた。
「少し派手じやありませんか」
「いや」強く頸をふられた。いかにも横光さんらしい直感と独断と自信に充ちていた。インバの裾には少しはねが上つていたし、その鳥打は決して横光さんによく似合つているとは思わなかつた。だが、後姿を眺めながら、僕は何だか愉しかつた。たとえば、「春は鳥打をかぶつて」とでも言うような気持になつた。そう言うハイカラな題の小説が、まだまだお書けになれる人だとも思つた。

白川渥「鳥打帽子」
昭和24年2月



 生前の横光利一と私はほとんど個人的な接触は持たなかった。しかし一緒に講演旅行をしたこともあって、太平洋戦争の直前、一週間ほど四国を廻ったときなどは、同じ部屋に寝たりした。(中略)
 私は、その夜、横光さんと枕を並べて、次のような会話をしたことを、今でも覚えている。
「こう不自由になっては、やりきれませんね」
 何かの話から、私が時勢の重圧に嘆息を洩らした。
「僕など、これからという矢先なのに……」
 すると、横光利一は、
「高見君の場合は、今度が初めての重圧ということだろうから、まだ、いい方ですな」
 私を慰めるように、しかし、憮然として言うのだった。
「僕などは、何度も重圧に苦しめられてきたですな。最初は既成作家の重圧。これも、なかなか、きつかったですな。そしてやっと文壇に出たと思うと、今度はプロレタリアが出てきよった」
 プロレタリアとはプロレタリア文学のことである。一時、その方に身を置いていた私は、ひやりとした。
ブルジョア文学を撲滅しろの、ブルジョア作家は抹殺しろのと、えらい目に会ったですな。メチャメチャにやられたですな。どうやらそれがすんだと思うと、今度は、君、軍部だ。三度も、つづけさまに、やられている」
 ポーズの無い横光利一が、そこにいた。ポーズの無い横光利一を私は見た。

高見順「昭和文学盛衰史」
昭和33年3、11月



 この会が、ある時、横光利一を呼んで座談会をやった。それまで日本の本格小説の代表者として尊敬されていた横光氏は、時代の移り変りに従って『旅愁』のなかで、独自の東洋主義、超国家主義を展開しはじめていた。それが私たちを憤激させていたので、この座談会ははなはだ失礼極まることなのだが、一種の査問会のようなことになった。「西洋には論理があり、東洋には人情がある」という横光氏の意見に対して、加藤周一白井健三郎は、論理は普遍的であり、義理人情はわが国の徳川時代の道徳、つまり一地域、一時代のモラルに過ぎないと言って、激しく攻撃した。
 横光氏は激怒して、帽子をほうりだしたまま席をけって帰って行った。
 私は翌日、その帽子を持って、横光氏を訪問した。そうして、昨日のわびを申し述べている間に、もう一度、昨日の話題の蒸し返しとなり、再び激論がはじまりそうになった。
 ついに横光さんは笑いだして、「君たちの学校はひどいよ。二度行って、二度とも攻撃された。第一回の時はプロレタリア派の全盛時代で、大学生の高見順君が猛烈に攻撃をしかけて来た」と言った。

中村真一郎「戦後文学の回想」
昭和38年5月



 永い間むりな労作をつゞけてきた横光氏は、体力の消耗からおこる疲労と衰弱に、人知れぬ悩みをいだいてゐたらしかつた。その尽きかけた精力に鞭うつて、最後の努力を傾けたのが、未完の大作「旅愁」であらう。
 それが藤田嗣治画伯の挿絵で、毎日新聞の夕刊にかゝげはじめられた時、永井荷風氏の「墨東綺譚」が木村荘八氏の挿絵で、朝日の夕刊にのるやうになつた。
「墨東綺譚」は評判がよく、「旅愁」は議論ばかりで一向面白くない。私はへんな話だが毎週一回、それとなく氏を激励に行つた。氏は私の底意を見ぬいてゐたのかゐないのか、私が「旅愁」をほめても一向嬉しさうな気配をみせず、いつもさりげなく私に応対してゐたが、「墨東綺譚」の掲載が完結すると同時に、氏は毎日の記者にむかつて突然、自作の中絶を申込んだ。記者はあわてゝ、後の作者がきまるまで、四、五日待つてゐてもらひたいと云つて、帰つて行つたさうである。
 私はたまたまその日横光氏を訪問して、氏自身の口からその事実を知つた。氏はさすがにその時、いくらか昂奮してゐたやうだつたが、私はまたすくなからず氏の芸術家らしい行為に感動した。
 氏は自作の不評判を自認しながら、「墨東綺譚」の終るまでそれに対抗し、終ると同時に自作をうち切つた態度は見あげたものである。
 氏はその後求められても、新聞小説に筆をとらなかつた。「旅愁」を雑誌に連載したのは、世評のいかんに拘らず、自作の価値を堅く信じてゐたからに相違あるまい。

中山義秀「遺産」
昭和28年12月



 横光さんの「蝿」が創刊後間もない「文芸春秋」の最初の創作特集号に発表されたのはあれはたしか震災の前の年だつたと思ひます。とにかく、原稿紙にしてわづか十五枚そこそこのあの片々たる短篇が当時私たち文学に志す若者に与へた感銘と昂奮とにはけだし筆舌に尽し難いものがありました。それほども大きかつた。その頃私は大阪高校の文科の生徒でしたが、突如として私達の前に姿を現はして来たこの無名の新作家の「真夏の宿場は空虚であつた。」の一句にはじまるあの短篇を繰り返し貪り読んだものでした。おかげですぐに暗誦してしまひました。学校へ行き、その頃の文学仲間――今は明治文学研究に専心してゐる神崎清、東京府立園芸学校の先生になつてゐる小野勇、東京放送局にゐる崎山正毅などに会ふと、私たちの話題は早速「蝿」に及び「横光利一」に及びました。私たちは二十歳前後の若者らしく眼を輝やかせながらこの新作家の新作品を論じ合つたものでした。そして、間もなく「横光利一」の名は私たちの仲間で新しい文学の代名詞のやうに使はれ出しました。
 しかし、右のやうな現象は何も大阪高校の内部にだけ起つたわけではなかつた筈です。同じやうな現象は、武田麟太郎のゐた三高の内部でも、深田久弥堀辰雄小林秀雄のゐた一高の内部でも、いな、恐らく全国到る処で、時を同じくして、無数に起つてゐたに違ひないのです。
 それほどにも「蝿」は――「蝿」による横光さんの出現はすばらしかつた。何故それほどにもすばらしかつたか、何故それほどにも次代の若者たちの心をキヤツチしたかと言へば、それは横光さんが文学の世界に全然新しいもの――それまでなかつたものを提げて堂々と登場して来られたからに他なりません。新しい文学精神とでも言ひませうか。横光さんは、過去の文学の柔順なる継承者としてではなく、闘志満々たる破壊者として登場して来られたのです。

藤沢桓夫「覇業の人」
昭和11年11月



 それからかなり経つた頃の或る日、私はまた先生の宅に上つてゐた。その日は雑誌の編集者らしい客が三人もいつしよに来てゐた。
 先生は椅子の上にあぐらをかいて居られた。そしてしきりに向きを変へられた。ふだんも蒼白いお顔色だが、その日は特別に蒼いやうに思はれた。気をつけてみると、先生の額の生え際に油汗のやうなものがにぢんでゐる。
「今日はどこかお加減がわるいんぢやないんですか」と私は言つた。
「いや…」と先生は答へて急に横を向かれた。
 客はそれから一時間ほどもゐて帰つた。するとすぐ先生は「きみ、ちよつと失敬…」と言つて厠に立たれた。戻つて来られると、また椅子の上に胡坐をかき、袂からチリ紙を出して額の汗をぬぐはれ、そしてはじめて私に言はれるのだ。
「きみ、ぼくは昨夜からひどい下痢で、これでもう十三遍も便所へ行くんだよ」
「そんなにお苦しかつたのなら、客をお断はりすればよいぢやありませんか」
「いや、ぼくがこんな腹をしてゐる時に限つて客が多いといふのは、これは今日といふ日のぼくの運だから仕方ないよ」
 さう言つて先生は笑はれた。その時咄嗟に私はいつか先生が奥さまに言はれた言葉を思ひ出した。そして、先生といふひとはかういふ考へ方をされるかたなんだナと思つた。
 後に病気で寝たり起きたりされるやうになつた頃「ひとつ西洋医学を信用して徹底的に療養されてはどうですか」とおすゝめした時でも、「きみ、病気といふやつは癒る時には癒るし、癒らぬ時には癒らぬよ」そして、「道ばたにしやがんで胃の中のものを嘔いたあとで空や樹を眺めると、実に美しいもんだよ、きみ。きみなんか、そんな美しさは判るまい」とまた笑はれた。
 先生は決して拒まれぬ方だつた。どんたことでも、それを先生のいはゆる「運」として、その起つた事実のまゝに是認しようとされるのだつた。この意味で先生は運命論者といふよりはむしろ徹底した自然主義者であつた。

八木義徳「先生と運」
昭和23年10月



 記憶に残る父の印象はその大部分が断片的で、所謂“父と子の対話”めいた情景は数えるほどしかない。そしてそれは、没後程ない頃と、三〇年を経た今日でも全く同じである。むしろ数えるほどしかないだけに、記憶の中の余分な事象が歳月に洗い流され、却って新鮮さを増してゆくようだ。
 幼時、私は“父親”というものは話相手の――子供なりの相談ごとの対象にはならぬもの、向かないもの。代りに、自分の世界にも割り込んでこないもの、と、いつかしらきめこんでいたようである。
 私にしてみれば、父は朝を除いた食事の折に顔を合わせるだけで良く、それ以外は、夜は遅くまで原稿に向かい、日中は来客に応対し、時折、夕方になると外出するなど、要するに子供の私とは無関係の世界に居るのがきわめて当りまえに思えたのだ。
 小学校の作文の朗読会などで、級友たちが休日を父親と遊園地や潮干狩り、ハイキングなどで行動を共にしたのを聴かされても、『何で父親まで一緒に行くのだろう、母親だけで充分なのに』という思いが先にたち、彼らの父親が、物語りのそれよりも遙か遠い、自分とは全く無縁の父親像としか映らず、凡そ無感動であった。

横光象三「不器用な愛情」
昭和52年12月


大正7年昭和10年 昭和18年



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